ここでは艦上戦闘機「零戦」の誕生までの
技術的な歴史を振り返ってみます。
1−開発開始
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2−過酷な要求
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3−設計のポイント
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4−試作機完成
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5−制式採用
日本海軍の戦闘機はまず輸入機からはじまった。これを外国人設計の機体や外国機を手本として国産機をつくりこれが日本独自のものへと発展した。そして、昭和11年には純国産の96式戦闘機が出現した。この96式艦戦は他国の艦戦に匹敵するほどの強さで日本海軍は完全に自立をした。
この96式艦戦の量産されてからすぐに昭和12年に海軍は三菱と中島に「十二試艦上戦闘機計画要求書」を交付して次の戦闘機の開発を開始した。その頃、三菱の堀越二郎技師らは11試艦戦爆の計画に取り組んでいたのですぐに新艦戦の開発に着手することは困難であった。そのためまず新艦戦の使用する翼断面の研究をすすめ、6月5日に風洞実験を開始した。しかし7月7日に、日華事変が起こったため航空本部は三菱に11試艦戦爆は断念し12試戦艦に全力を注ぐように指示をだし準備が開始された。
昭和12年10月5日に交付された。「十二試艦上戦闘機計画要求書」は下のようなことが書いていた。
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この要求は空戦性能を96式2号艦戦同等に保ちながらにして最大速度を40kt(74km/h)以上も向上させ、そのうえ上昇力、航続力もかなり向上させて武装もはるかに強化させようというものであった。もしもこの要求を全て実現させれば速度、上昇力、旋回性能、離着陸性能ともに高い水準でバランスのとれた世界最強の戦闘機になるのは間違いなかった。しかしこの要求を全て実現するのは不可能に近くとても過酷な要求であった。
翌年13年には中島は競争試作を断念したため12試艦戦の開発は三菱だけで行うことになった。そしてこの計画書にもとずいて三菱は三菱A6M1計画説明書を作成し13年4月10日に海軍に提出した。
この三菱A6M1の設計にあたってこの厳しい要求をクリアするために重量軽減、空気抵抗の減少、安全性・操縦性の向上が重視されていた。そのため胴体を前後に分割して主翼と一体した胴体前半部と後半部を小さなボルトで結合した新方式の採用、新開発の翼型、小さい昇降蛇、定速式プロペラ、沈頭兵、超々ジュラルミンESD、水滴型密閉風防、流線形落下増槽、引き込み脚、20o機銃などの新機軸を取り入れた。
特に重量軽減に関しては堀越技師は細部設計まで強度計算を行い、グラム単位で取り組んでいった。また堀越技師は重量軽減だけでなくすべての面で妥協を見せなかったという。
もう1つ重要な設計方針として翼面荷重の目標を105kg/m²以内という思い切った低い値にしたことである。この低翼面荷重は零戦にとって優れた空戦性能を生み出したが逆に急降下制限速度を低くおさえる必要が出てきた。
そして13年4月27日の第1次木型審査をはじめに各審査がはじまった。
昭和13年4月27日 第1次木型審査
7月11日 第2次木型審査
12月26〜28日 第1次実物構造審査
14年2月24・25日 第2次実物構造審査
3月16日 A6M1第1号機完成
3月17日 第1号機完成審査
3月18日 第1号機地上審査
4月1日 第1号機初飛行
4月5日 社内飛行試験開始
4月25日 正規状態で性能試験開始
7月6・7日 第1回官試乗
8月23〜25日 第2回官試乗
9月13日 確認飛行
9月14日 海軍へ領収、横空へ空輸
このような経過をたどって三菱が正式に計画要求書を交付されてから2年11ヶ月あまりで海軍へ領収された
この間に中島で開発していた栄がタイプテストに合格したので3号機以降の試験機は栄12型に換装した。これがA6M2である。
昭和14年5月1日 栄12型装備の第3号機をA6M2とする。
12月13日 第3号機実物構造審査
12月28日 第3号機社内飛行開始
15年1月18・19日 第3号機機官試乗
1月24・25日 第3号機領収飛行
3月11日 第2号機空中分解−改修が実施
7月24日 A6M2零式1号艦上戦闘機一型として制式採用(11型)
このように制式採用された零戦は性能向上、武装強化、防御力強化が図れられて32型〜54丙型までの型が開発された