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第100歩兵大隊と第442連隊

参考文献:米国日語協会一世史年表、末吉氏提供資料

写真:米国日語協会一世史年表、末吉氏提供資料

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パール・ハーバーが攻撃された後、アメリカの政府は、多くの日系アメリカ人は陸軍からはずし、そうじや建物を造ることをさせていた。

しかし、彼らの努力を見て、ハワイのデロス・エモンズ大将は特別の日系アメリカ大隊を作ることにした。これが第100歩兵大隊である。 1942年の7月、第100歩兵大隊の1200人の日系2世軍人と29人の将校が米国本土で訓練を始めた。

彼らの多くは以前にこの訓練とそのテストを受けていたが、陸軍にいいわけを与えないよう、もんくもいわずに大変よく耐えた。

それに加えて、まだ戦争にも出ていないのに、5人の訓練兵は、凍結している湖から訓練所近辺の住人を助けて勲章をもらっている。


 しかし、第100歩兵大隊はまだ「パール・ハーバーからの実験物」と思われていた。実際、日系軍人の監視のため、将校は全て”ハオレ”(ハワイ語で白人)だった。

だが第100大隊のおかげで、日系人全体から徴兵できるようになった。第442連隊(第100歩兵大隊が参加)の創設を決めた時、ルーズベルト大統領は「アメリカニズムはけっして民族や家系の問題ではない」と言った。


1943年8月11日、第100歩兵大隊は北アフリカのオランへ派遣された。当初は物資供給列車の護衛が任務だったが、ファラント・ターナ大佐は、第100歩兵大隊を実戦に出すことにし、第34"レッドブル”師団とともにイタリアのサレウノヘ派遣された。

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レッドブル師団の紋章

第100歩兵大隊はモンテ・ミレト攻撃作戦に参加。初めの1週間で死者3名、けが人36名がでた。死傷者があまりに多いため、第100歩兵大隊は「パープル・ハート歩兵大隊」とよばれはじめた。「ゴ・フォア・ブローク(前線突破)」をスローガンにする。


1944年1月24日、第100歩兵大隊はまた、前線に投入された。モンテ・カシノ攻略戦である。たった1日で、攻略1歩寸前まできた。しかし、死傷者が多く、補給は少なく、やむなく撤退しなければならなかった。5個の部隊と空襲攻撃が応援され攻略戦は決した。


1944年の6月、第100歩兵大隊は第442連隊に統合される。どちらも複数の戦いに参加し、高い死亡率にかかわらず、脱走兵は少なかった。2年間で、第100歩兵大隊と第442連隊は米国史でもっとも勲章をもらう軍隊となった。

第2次大戦での日系2世軍人数は16000人うち、戦死者は700人であった。また9500人の日系人軍人にパープル・ハート勲章が贈られている。

彼らは、海外(ヨーロッパ戦線)だけでなく、自国内でも差別と言う別の戦争で戦ったのである。

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