発見と海賊の時代
1535年、パナマから南アメリカへ向かって出帆したスペイン人司教フレイ・トマス・デ・ベルランガはガラパゴス諸島を発見した。その数年前、南アメリカに栄えていたインカ帝国は、ピサロの軍隊に屈してしまった。トマス・デ・ベルランガは、その征服地へ向かう伝道師だった。大陸に沿って南下するうちに、西へ流れる海流にとらえられ、偶然にガラパゴスを発見したのである。

人類が、この赤道下の不思議な島に姿を見せたのは、このときが最初であった。
もっとも、それ以前にインカの人達がやってきていたと説く人もいる。しかし、まだその確証がない。

インカ帝国の崩壊のあと、パナマから南アメリカへはスペイン船が進出した。
17世紀に入ると、インカから金銀を持ち出すスペイン船をねらって海賊船が横行するようになった。海賊船はガラパゴスの島陰に隠れては略奪を繰り返した。今も当時の隠れ家には、海賊湾(ブカニア・ベイ)という名が残っている。
海賊の中には、ガラパゴスの島々の位置を天測して地図を作り、島に名前をつけたものもいた。とくに1684年にやってきた海賊ウィリアム・ダンピア、アンブロウズ・カウレイ、エドワード・ディビス(いずれもイギリス人)は詳しく記録を残し、彼等による命名が今の島の英名として用いられている。


捕鯨船と入植の時代
18世紀から19世紀中頃までは、ガラパゴスの海域では捕鯨船が活躍した。そのころからガラパゴスの自然には、2つの異変が目立ち始めた。1つは野性化した山羊の増加である。海賊船の時代、山羊は食料として船に乗せられていて、何頭かが島に放たれた。数を増やした山羊は海賊の食料となった。捕鯨船の時代には山羊の繁殖が一層目立ち始めた。
もう一つ、ゾウガメの捕獲量の増加である。ゾウガメの肉はとてもおいしく、手近な食料源であった。19世紀初めの30年間に活躍した捕鯨船105隻の航海日誌を調べただけでも、少なく見積もって合計14000匹のゾウガメが捕獲された勘定になるという。
1832年、エクアドルはガラパゴス諸島の領有を宣言し、人の居住が始まった。
フロレアナ島、サン・クリストバル島、イザベラ島、シェラネグラ火山が次々に入植と開拓の対象となった。ダーウィンが来た1835年には、フロレアナ島の入植地には3000人もの人が住むほどであった。この集落はのちに衰退してゆく。
この時代には、沿岸部と山地中腹に入植地が拓かれた。山地ではスカレシア林の肥沃な土地が農耕地に変えられたのである。この時代、安定した食糧源はゾウガメで、入植者はそれを利用した。その捕獲数は察すべくもない。どうした訳か、豊かな地味に恵まれ、いまでは最大の人口をかかえるサンタ・クルス島は、1935年に至るまで入植の対象にならなかった。

今日のガラパゴス

1968年に、大陸とガラパゴスの間に航空路が開設された。それ以前は船だけが頼りで、1960年代には月2回の定期船があったが、以前はもっと不便であったそうだ。航空路の開設以前と以後で、島の中の生活は大きく変わった。 この航空路はもともと第2次世界大戦中に米軍が各地の戦場の足場として作ったもので、それを利用して空港が開設された。しかしこの空港のあるバルトラ島は無人の島で、空路この島に到着してもあらかじめ手紙または電報で迎えの船を手配しておかなければ、人の住む所へはたどりつけなかった。しかし1976年のバルトラ島とサンタ・クルス島との間に横断道路が完成したことにより、空港から、バス、渡し舟、バスと乗り継いでサンタ・クルスの南岸、アカデミー湾の港町、プエルト・アヨラにいたることができるようになった。本格的な観光の始まりである。

観光

航空路が開設される前にも、たまに旅行者が訪れて痛そうである。月2回の船便で、大陸の港町ガヤキィルから3日がかりできて、停泊中だけ上陸してその船便で大陸へ帰るか、ガラパゴスに居残って漁船かヨットをチャーターして島を巡り、次の船便で帰っていった。こうした旅行形態は、航空路の開設で一変した。 飛行機の到着に合わせて、観光船がバルトラ島で客を乗せるようになった。船は客を景勝の地、動物観察地へ運ぶ。ガラパゴスでは、観察地へ行って動物がいなかったということは絶対にないそうである。ペンギン、コバネウ、グンカンドリ、カツオドリ、海と陸のイグアナ、彼らが観光客の期待を裏切ったことはないそうである。この評判は欧米に広まり、来訪者が増してきた。 しかし、観光客が増えると当然起こってくる問題がある。それは自然保護問題である。1964年い開所したダーウィン研究所は研究・調査とともに、自然保護に携わっている。エクアドル政府も自然保護管をガラパゴスに置き、のちにそれは国立公園管理事務所に発展した。研究所ではナチュラリスト・ガイド(Naturalist Guide)の講習を始めた。彼らは自然史全般について1ヶ月間講習を受け、試験に合格するとナチュラリスト・ガイドの資格が与えられる。観光船は旅客20人に1名のナチュラリスト・ガイドをつけるように義務付けられた。ナチュラリスト・ガイドは4日または1週間の観光客を20名ずつ受け持って、船から観察地へ案内し、現地で解説すると同時に監視もする。後ほどのVideoに出てくる人物「フランシスコ」もこのガイドの一人である。定員100名前後の観光船が、今は数隻運行している。 道路ができてから、プエルト・アヨラには宿泊業者が現れた。もっとも、そこでうまく宿が見つかっても、他島へ簡単に渡れるわけではない。高価なヨットをチャーターするか、漁船を雇わなければならない。もしガラパゴスへ観光へ行きたければ旅行会社にプランを練ってもらうことが一番よいであろう。 こした来訪者の増加は、島の経済を変えている。ガラパゴスも近代化の道をたどっている。


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