陰陽の日本史
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陽寮は、天武以後どのように政治に役立ってきたのだろうか。
 一つ例を挙げてみよう。平城遷都である。元明天皇の平安遷都の詔を見ると良く分かる。


「今回新たに皇都と決定した平城の地は、昔から皇都の瑞祥とされている四禽が東西南北 に正しく当てはまる四神相応の地で、また畝傍・耳成・香具の山々が都の周囲に聳えて、ちょうど皇都の鎮護をなしているような、要害堅固の土地である。のみならず亀トの法や筮の法によって占ってみても、いずれも皇都として好適の地である。そこ で平城の地への遷都を決定したのである」


 ここには陰陽師の占いがどのようなものであったかが描かれている。
 天皇が政務を行う皇都は、古代的概念において、世界の中心に他ならなかった。
 その為遷都は政治的、宗教的どちらにとっても極めて重要な意味を持つ大事業で、遷都する土地の選定には高度な政治的判断力が不可欠だった。

 それには、第一に宗教心理的に為政者を含めた全ての人々を納得させうる土地かどうか、第二に立地条件が満たされていなければならなかった。

 この第一の要求を満たす為に用いられたのが陰陽師であった。
 詔に有る「四神相応」とは、都が、東を司どる蒼龍、西を司る白虎、南を司る朱雀、北を司る玄武の四神の方位と正しく向き合い、地相的に大吉であることを示している。
 これを調べるのが陰陽師の仕事であり、これは『律令』でも明確に規定されていた。

 もうひとつの大事な仕事は、「筮の法」即ち易占である。
 詔には「亀ト」も描かれている。前者は大陸伝来のもので、後者が日本古来のもので、この二つを合わせて行い、両者の判断をもって遷都を決定 すると言うのも、政治・宗教的要請から導き出された祭政テクノロジーの一つであっ たと言ってよいだろう。

 この様に陰陽道の占術は、王権維持を担う重要なメカニズムの一環として機能した。


安京は誰が築いた都かご存知だろうか?

 小学校の頃の記憶を辿って頂けるとすぐ に思い当たるであろう。ご存知、桓武天皇である。
 桓武は平安京に移る前には、長岡京に住んでいた。長岡京は京都盆地の西北部、桂川西岸に位置する。風水師の中でも抜きんでた者達が様々な角度から選びぬいた最上の瑞相の地であった。


 それにもかかわらず、なぜ桓武は長岡京を捨てたのか?


 桓武は光仁天皇の皇子である。その光仁天皇の妻は井上皇后という。しかし、桓武の母は井上ではない。
 その義理の母である井上と桓武はまるで「源氏物語」のように密通した。これの背後には藤原一族が絡んでいる。

 当時東宮の地位には既に井上の子が起っていた。しかし、藤原氏としては桓武 に皇位を継いでもらいたかった為、皇后が光仁天皇を疎み、術をかけたという噂を流 した。そればかりでなく、動かぬ証拠として、目と胸に釘を打ち込んだ人形を宮中の井戸の中から暴露して見せた。
 当然濡れ衣であるが、その結果、井上皇后とその子である 東宮は流罪が決定し、挙げ句の果てには毒殺されてしまった。この為に桓武は、天皇の位につくとになる。

 この策略に桓武はどれほど関与していたのか分からないが、問題なのは、このジレンマが桓武を異常なまでに「祓う」という行為に駆り立てていったことである。
 このジレンマからどうにかして逃れたいと感じた桓武は、この不浄を奈良の都のせいであると責任転嫁する。そして延暦三年に長岡京に移った。

 しかし、 これこそが悪夢の始まりであった。

 長岡京遷都の翌年、桓武の片腕であった藤原一門の男が何者かに殺された。この容疑が、桓武の弟にして東宮である早良親王にかかった。
 彼は結局流罪になるが、最後まで無罪を訴えながら断食を以って抗議し、壮絶な 最期を遂げた。
 これに続けとばかりに、数年経って桓武の皇后が死去。ついで実母も死去、更に流罪になった早良親王の代わりに東宮として立てた子供も病に倒れた。

 また、桂川が氾濫、そのお陰で皇居は壊滅状態に陥り、水浸しとなった新都に大量の水死体が浮くという目も当てられない大惨事が起こった。
 その上、折りからの疫病が京都一帯に広がり、盗賊が我が物顔に人々を襲っていく。

 ここまで来て桓武が考えたこ とはただ一つだった。

「ここは土地が悪い!」

 そして、まだ十年と経っていない都の、次の候補地を探し始めた。
 少し冷静に考えれば新都が水に酸かってしまったのは 設計のミス、疫病や治安の乱れは行政のカバーしなければならない問題点であり、早良親王とは全く関係が無い。

 しかし、すっかり動転して怨霊の顔しか思い浮かばない桓武にとっては、皆グルであるとしか思えない大惨事だった。
 そして桓武はこう考えた。

「今までの代償にこの都をよこせと言っているのだろうか?」

 それならばいくら祓っても通じないはずである。こうして桓武は長岡京を明け渡し、平安京へ移るのである。



 平安時代に、我が国は陰陽道全盛期を迎える。
 陰陽道の担い手を陰陽師といい、彼等はこの時代、時に天皇まで動かす官僚占術師として活躍していた。
 彼等が扱う書籍、機器は国家機密として厳重に管理され、陰陽寮に属する陰陽師以外がそれらを見聞きした場合、実刑に処せられた。

 当時日本は、奈良時代には対外的に向いていたエネルギーが、一種鎖国に近い状態になっていた平安時代にはより内向的なものとなっていた。

 それは独自の国風文化を生み出し、国民性や、高い精神を養ったり、心と向き合 う文学が生まれたりなど良い面にも多大な影響力を及ぼしたが、闇の方面にも多大な 影響力を及ぼした。
 当時の人々は、闇の世界を極度に恐れていた。故に、陰陽師を、未来を見抜き、天命を読み、鬼や天神と通じ、時に死者までもを蘇らせることができる超人的な力を持っているものと考え、畏怖した。

 この当時の日本には陰陽師の他に、呪禁師、宿曜師等、異界のエキスパートが数多く存在した。それらが相互に影響 し会うことによって、異形の世界と現実世界が怪しく交錯しあう、独特な社会が形成 されていった。


こうした中で歴史に登場したのが、安倍晴明である。


 しかし、彼のような国家公認陰陽師とは別に、隠れ陰陽師も登場しはじめ、暗殺も請け負った。
 この隠れ陰陽師は本来違法な存在ではあるが、律令体制が崩れかけいたこの時代の後期には公然と活動していた。

 十世紀菅原道真が藤原時平によって左遷された事件の背後には、陰陽師の呪術があったとも伝えられる。彼等は国家に仕えるだけではなく、天皇や公家の私生活にまで入り込み、それまで強調されることがなかった方角や星巡りの吉凶を語り、公家達の精神生活の一部を支配し始めた。
 こうした事は、エネルギーが内向的になっていたからであり、これが外国と張り合っていかねばならない奈良時代なら有り得なかったことである。


 こうした時代を背景に、陰陽道界を牛耳る二大勢力、加茂家安倍家(土御門家)が登場する。
 陰陽道は本来家が継ぐ性格のものではなかったが、加茂・安倍両家はこれを世襲の技能としてしまったため、その秘術は神秘のベールにかくされてしまった。
 官僚的陰陽道は、私物化されることにより、その命を長らえながら時代を生きていった。そして、陰陽道は呪術色を深めつつ、より広く深く、歴史の闇に浸透していくことになる 。




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