1-3.情報と知識

 「情報」この言葉は昔から様々な言葉や意味が交わりあい、現在では英語「INFORMATION(インフォメーション)」の意味と日本語での「情報」の意味はほぼ同じ意味で用いられている。「情報」を辞書でひいてみると、ある辞書には「ある物事の事情についての知らせ、それを通して何らかの知識が得られるようなもの」、つまり「知らせる内容」と定義されていると前述した。
 
れでは情報と知識とは何が違うのか。第一の相違点は、情報とはある期間で動くものであり、知識とは時が過ぎても固定されているものであると言える。また、情報には伝えるという性質がある。知識も人から人へ伝えられていくということはあるが、情報のような「流れ」がない。つまり「フロー」がないのである。

 、ある人が情報とは石鹸の泡のようなもの、つまり泡のように消えてゆくものであるといった。シャボン玉とは、時間がたてば減っていき、いずれは消えてしまう。また熱を加えなければ温度が下がっていくように、情報も手を加えなければ衰弱してしまう。3日前の新聞は、古新聞でしかない。情報は寿命が短いからこそ、人は様々な情報を取り入れても頭がパンクしないで済むのである。だが知識が泡のようでは困る。人は知識に基づいて行動している。それなのに知識が短命では、心のよりどころに不安を覚えないわけがないだろう。つまり情報とは短時間で消失していく性質から、知識とは決定的な違いがある。情報とはあくまでも物事の判断の参考になりうるものであり、それを信用するかしないかはその情報を受けた本人が決めることである。

 かし、情報が無目的ということではなく、その本質は「行動の選択に有用であること、環境や自分の状態を示しうること、意味のある記号で表示されていること」にある。そして、情報には人の思考も少なからず入ってくる。これは情報には意味があるから自然となってしまうものであり、仕方がなく、またこれがないと意味が成立しない。

 識とは信用するもしないも、多くの人びとの経験によって実際に確定されたものである。要するに、情報は流れて流通を形成し、断片的で寿命も短く、信用できない内容を含んでいる。この正反対が知識といって良いだろう。その中で、情報に解析と実証が加えられれば知識になるし、知識に流通への条件が整えられれば、それは情報となる。

 後にあと一つ。情報が多いというのと、情報に価値があるというのは全く別のことである。やたら長い情報も無駄ばかりということさえある。価値の判断には社会的な意味が加わり、一見して必要な情報であると見抜きにくい。主観的にも依存するし、環境にも支配される。情報を構成する要素は必ずしも秩序を形成しているとはいえない。それに反し、知識の構造は、これを完全に成しているといえよう。つまり、情報は分子的であり、知識は総合的であるといってよいだろう。