●ボーハタン号

アメリカ合衆国の蒸気軍船
武装:11インチ砲1門, 9インチ砲11門
初出航:1850年2月14日ノルフォーク軍港から出航 名前の由来は原住民の長、ポーハタン(1550?−1618)後にバージニア州にある街もこの名がつく。

初出航後、ニュートン提督の指揮により、アメリカ艦隊と合流、ニューヨーク州へ向かう。ニューヨークでアメリカ海軍書記に視察。同年10月16日、ニューヨークを後にし、ニューメキシコ州のヴェラ・クルズへ向かう。11月27日、ノーフォークに戻る。

その後1853年6月15日ミクルーニー提督の指揮により東インドにいる艦隊と合流、喜望峰にある港に着く。中国領域に入ることにより、後にペリー提督の日米和親条約を結ぶ時と、日本に港を2つ建てるのに重要な役割を果たすことになる。翌年の2月14日、江戸湾に着く。

ペリーの指揮艦として条約を結ぶとき(同年3月31日)江戸湾に戻る。1855年8月、軍事作戦としては初めて戦闘をおこなう。クーラン地方にいる中国の海賊達を追い払うためである。この作戦は成功し、新しい条約ができる(2月14日1856)。

1860年1月、日米修好通商条約のために新見豊前守正興率いる使節団が乗艦、ワシントンに向けて出航。この船上にて条約が調印される。 アメリカ内戦にも頻繁に参加し、指揮艦としてヴェラ・クルーズ作戦に出動する(1860年10月)。ディクソン大尉の指揮によりピッケンズ砦解放を援助する(1861年4月)。妨害のためにモバイルに滞在(5月26日)。メアリー・クリントン号を捕らえる(5月29日)。7月から8月にかけてミシシッピ州にある貿易路を妨害、アビ−・ブラッドフォード号を捕虜とする(8月15日)。

8月の終わりから10月にかけて西インド諸島でサムター号を追跡。1862年10月から1863年8月までサウス・キャロライナ州のチャールストンを拠点とする。ウイリー号を捕らえる(4月19日)。ルータロー号を捕らえる(5月16日)。1863年11月から1864年9月にかけて二度目の西インド諸島に航海、このときラーナー少将の指揮艦として行動する。

フィッシャー砦の攻撃に参加(1864年12月24日〜25日)。砦の占領にも参加する(1865年1月13日〜15日)。1865年10月、マサチュ−セッツ州のボストンより、ツスカローラ号とバンダ−ビルト号と共に、モナドノック号の護衛としてカリフォルニアへ向かう。1866年6月22日、サンフランシスコへ着く。

アメリカ内戦終了後、南太平洋艦隊の指揮艦として1866年から1869年を南太平洋で過ごす。1866年12月12日から1868年7月14日までダルグレン提督の指揮で行動、1966年3月にはヴァルパライソへ向かい、スペイン軍からの攻撃を防ぐために待機。1869年から1886年まではアメリカ艦隊と行動し、指揮艦として1869年9月15日から1870年12月30日まで行動、その後も指揮艦として1877年7月4日から1879年12月10日まで活躍する。

1880年から1886年まで大半はキューバ付近の海域でアメリカ防衛のために行動する。 波乱の日々を終え、1886年6月2日に廃艦と決まる。同年7月30日にコネテイカット州メリデン市のブルデット湖に売られ、1887年8月5日に解体される。

<日米和親条約><ボーハタン号><批准書交換前後>