●批准書交換前後

『幕府の変化』

1854年3月、幕府は日本和親条約---
日本はアメリカ船に 食料、燃料、水などを供給すること
下田・函館を開港する こと
アメリカ領事が日本に駐在すること
アメリカに一 方的な最恵国待遇をあたえること)が結んだり、1858年6 月には日本修好通商条約(神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港 と江戸、大阪の開市
開港場でのアメリカ人の居留
日米 料国民の自由な通商
日米両国の協議による関税の決定
アヘンの輸入禁止
アメリカ人の犯罪に対するアメリカ領事 による裁判など-

--を調印した。しかし、関税自主権がなく、 また領事裁判権を認めている点で、この条約は日本にとって不 平等条約だった。幕府は引き続きオランダ、ロシア、イギリス 、フランスと同じ様な条約を結び、日本は欧米諸国と貿易を開 始することになった。

1860年(万延元年),幕府は条約批准書の交換のため、ア メリカに派遣した。この時、勝海舟を艦長とする幕府の軍艦咸 臨丸がこれに随行してアメリカ西海岸に渡った。 この時日本は、外国との貿易がすすむにつれて、生糸や茶の輸 出が激増した。

そして国内物資の不足をまねき、急激な物価上 昇をもたらし、下級武士や庶民の生活をおびやかした。また、 大量な金貨が海外に流出し、国内経済は混乱した。重要商品は 、必ず江戸の問屋とへて輸出するように命令したが、在郷商人 、外国商人の反対であまり効果がなかった。

その後、欧米諸国に勅許をえないまま通商条約を結んだことが 、日本国内の対外危機意識を深め、反幕府の気運を高めた。生 麦事件、金門の変、「ええじゃないか」の乱舞などなど、さま ざまな事件があった。色々と動揺していた幕府はそのような混 乱を次々と乗り越えて行き、明治維新へと進んで行った。

 

<日米和親条約><ボーハタン号><批准書交換前後>