咸臨丸の一生

咸臨丸は安政二年(1855)黒船の来航に驚いた幕府がオランダから購入した軍艦です。 1860年、日米修好通商条約批准に渡米する日本初の遣米使節団は、 アメリカの軍艦ボーハタン号に乗艦しましたが、その護衛のため選ばれた幕府の軍艦が咸臨丸でした。

建造当時の咸臨丸

船質
木製
総トン数
300トン
全長
50メートル
7.3メートル
主機
蒸気機関100馬力
マスト数
3本
備砲
12門
スクーナー型コルペット艦
速力
6ノット

1860年(万延元年)2月10日、桜田門外の変が起きる一ヶ月前、遣米使節団の出発三日前、浦賀を出帆してサンフランシスコに向けて壮挙に挑みました。

提督には、木村摂津守喜毅、艦長に安房守義邦、士官17名、水夫、従者併せて総勢96名が乗り組みました。 そのなかには福沢諭吉、中浜万次郎(後のジョン万次郎)、勝海舟がいました。

咸臨丸は、日米和親条約の批准のために随行した日本人によるクルーズでした。クルーズといっても、現在の豪華客船のようにはいきません。艦長の勝海舟は船酔いのために、航海中はずっと船室に閉じこもっていたそうです。

福沢諭吉も懇願して乗船、船中では英語の勉強に励んでいました。咸臨丸をめぐる物語は少なくありません。咸臨丸一行は日本人として初めて、正式にアメリカ国土を踏んだことです。

サンフランシスコに上陸した一行は、地元で大変な歓迎を受けたそうです。昇降する箱(エレベーター)に閉じ込められて驚いたり、ワインに酔ったり、写真館で若い女性と記念撮影におさまったり…。

そんな彼等をサンフランシスカンは興味深々、心温かく迎えました。咸臨丸一行の目的は、近代文明をこの目で見て、体験して、吸収、明治維新の国家建設に役立てること。いわばアメリカへの産業・社会視察旅行でした。当時はこれを「観光」と言ったそうです。