ペリー

1852年11月24日、マシュー・カルブレイス・ペリー少将は、アメリカ大統領、フィルモアから、」日本遠征の命を受けて、ある野望を胸に、600人もの海兵隊とともにチェサピーク海岸を出航した。

出航に先立ちペリー提督は3年前、長崎にアメリカ漁船の漂流者をうけとりにいった事のあるグリーン中佐に会った。この時にグリーン大佐は日本人の性向や習性についていろいろと予備知識を提供した。

そして、江戸から遠い交渉は避け、なるべく将軍の都府に近い港に艦隊を進め、日本人の役人には、高圧的な態度でのぞむことを進言した。この言葉を胸にしまいこみ、ぺりーは日本国をめざして太平洋への航海をはじめた。

そして、9ヶ月近い日数をかけて1853年7月8日(嘉泳六年6月3日)午後5時頃に相州浦賀沖に姿をあらわした。日本を混乱に陥れた黒船艦隊は、海兵隊600人が乗り込んでいた。

提督は持参する、大君あての大統領書簡には、通商和親のほかに、漂流民の保護、航海のための 補充、薪水食料の提供などが当面の課題として列記されていた。だが、ぺリーの胸中には、別のものがあった。ぺリーはアフリカ西岸のマディラ島から海軍長官に当てた書簡に「日本政府がもしわがほうの要求を受け入れず、不幸にして武力の流血を伴った場合は、日本を攻撃する足場としてかの国の南方諸島の1,2の根拠地を占領したい」と書いていた。

彼は日本に遠征しにきたのである。ペリーは「浦賀は江戸の喉首にあたる。ここへ、艦隊を進入すれば、大君政府は首根っこにあいくちを議れたも同然だ。行き給え。浦賀に」というアメリカ総領事の助言をもとに日本行きを決断した。三浦岬から合戦準備に入った艦隊が浦賀沖に到着したのは7月8日(6月3日)の午後5時ごろだった。