妖怪年表の妖怪
――天狗の先祖から妖虫伝まで――
今までにもたびたび引用させて頂いた藤沢衛彦作成「日本怪奇妖怪年表」には、なお多くの原料がぎっしり詰っている。その中からいくつかの妖怪・怪奇に短評を加えて、しめくくりとする。 年表は今から何年前と記すことが出来ない神代・上代からはじまっている。たとえば『旧事本 紀』に、スサノオノミコトが、猛気胸にみち、それを吐きだしたら天狗神(あめのざこがみ)になったというのが ある。これを、もし天狗の初見とするならば、天狗はインド原産ではなく、わが国第一の猛々し い荒神であるスサノオの子ということになって、まことにぴったりした天狗の由来となる。また
『日本書紀』にある落雷のような音を立てて流星があったが、ある人はこ れは流星ではない、天狗(あまきつね)だといった。これを流星以外の「天狗」の初見とすることも出来る。 初見といえば、「鬼」は、『日本書紀』に斉明七年(六六一年)に斉明天皇が亡くなり、その葬 列を「朝倉山の上から鬼が大きな笠をかぶって見物していた」とあるのが鬼の初見なのだが、も しも同じ『日本書紀』の黄泉国でイザナギノミコトを追いかけて来たヨモツシコメたちを鬼女だ
とすれば、そっちの方がずっと早いことになる。 『大日本史』 に、仁徳帝のころ、飛騨に、両面宿な、という稀有の合体人間がいた。体は一つ、顔 二つ、四本ずつの手足で剣と弓を使い、荒れまわったという。これは全く空前にして絶後の超怪 人というべきで、豊田有恒さんの 『両面宿な』 (早川書房) 『飛騨のヤマトタケル』 (祥伝社) に取 りいれられた。
 キツネは女人と化して美濃の男と夫婦になり、のち犬に吠えられて逃げなければならなかった が、その良人が 「疾く来つ寝よ」といったのでキツネという名になった…・というのだ。伝説に も 『日本霊異記』 にもあって五四四年ごろのことだというから、ずいぶん早い。化かすのなんの という人と敵対する話はずっと後代になってからで、むかしは人とキツネはもっと仲がよかった のだ。
 人魚―鬼―鵺―雷獣などは、頻々と記録にあらわれる時期と、ぱったり出なくなる時代があ る。平安時代はまさに 「鬼の世紀」 であり、鵺は九〇五年〜一四一六年までに一〇回もあらわれ たり鳴いたり退治されたりしている、という風に。 一二五九年の春、飢饉や疫病が流行した。このとき子供より小さな尼があらわれ、死体を食っ て歩いた。一三四六年に京都にあらわれた小尼も人食いであった。
 これは 「妖怪年表」 にはないが、秋の夜に畳の聞から毛筆くらいの身長の小人が何人かあらわ れて戦うのを見た話が 『黒甜瑣語(こくてんさご)』 にあり、可愛らしいところでは小泉八雲の 「ちん ちん こばかま  よもふけそうろう おしずまれ ひめぎみ や とんとん」がある。
 小人の尼でも人を食って歩かれてはたまらないが、中にはそのように無害であどけないのもあ る。いわゆる小子の残映なのであろうか。もしアイヌよりもっと古い日本の先住民が、コロポッ クル人という小人であったのなら、彼らもわずかながら子孫を残し、それがまれに諸記録に書き とどめられ、妖怪扱いされているのかも知れぬ。
 前にも後にも全く類例がなくて、しかも気味の悪いことこの上なしというのは肉人というものだろう。慶長十四年(一六〇九年)、『一宵話』 によると、徳川家の大御所家康の住む駿府城の庭 に、それが出現した。形は小児で肉のかたまりみたいなまっぱだか。手はあっても指はなくて、 その手を棒のように上げて天を指して立っている。捕えようとしても捕まらない。如何致しまし ょうときかれた家康は、「人の見ぬところへ追い放してしまえ」と答えたので、家来たちはその 肉人を、城から遠い山林の中へ追い払った。あとになって学識ある者が、「それは封(ほう)と申して、
その肉は万病にきく仙薬じゃ」といったので、みなみな残念がったというのである。が…・剛毅 な三河武士たちも、目も鼻も口も、指もないすっぱだかの小児とあっては、殺して肉を食う気に はなれなかったであろう。  まだ足利氏の天下であった大永元年(一五二一年)、尼ケ崎の合戦に於て、敵二人を両わきに挟 んで海へ飛びこんだという、まるで鎌倉権五郎のような豪勇の士があった。この嶋村なにがしと いう武士は、死後カニに生れかわったといって、そのカニを嶋村蟹という。武士が生れかわって カニになるのは、何もヘイケガ二に限らないらしい。
 貞享二年ごろ、江戸に庖瘡が流行し、道瑞(どうずい)という人の娘も罹病した。その夜、道瑞は夢の中で ″痘神″に会い、それを叱りこらして、これからは痘瘡で人を死なせませんという誓文を書かせ た。目ざめてみると娘は治っているし、誓文もちゃんとあった。この誓文を見た患者はけろりけ ろり治ってしまう。このため道瑞は五〇〇人もの人を救った(『砿石集』)。
 日本では疫病神ということはいうが、痘神というような特定の病気を司る病神はないと思っ ていたら、こういう例もあったのだ。…中国では″痘瘡娘娘″といって、親たちが子供が庖 瘡に罹らないように―罹っても軽くすむように祈る女神がある。それに祈るところはたとえば 『紅楼夢』 にも書かれている。
 享和元年(一八〇一年)の五月に、相模の漁夫重右衛門に妹が一人、この妹の夢枕に立った河 童が、自分を祀ってくれと依頼した。これすなわち水天宮の河童神だという。河童はカワノヌ シ、カワノトノ、スイシン、ミズシンという方言名もあるくらいで、もともと水神・河伯の性格 をもった信仰対象だった。この娘の夢枕に立った河童も、そのことを知っていた(?)と見え る。
こえて文化二年(一八〇五年)には、江戸は合羽橋にすむ浪人が、刺合羽を発売して大あたり、 その利益を社会還元して隅田川の治水工事をしたら、大ぜいの河童がそれを手伝った。浪人は
河童寺を建ててこれを記念した―という、まるで洒落づくしのような話があった。 最近(一九八六年)某誌に、福岡市の宇田明男氏が、「太古カッパ神族の謎と秘密に挑む」とい うレポートを寄稿されたが、その結論では、カッパ神族発祥の地は今のトルコの一部に含まれて いるカッパドキア地方だそうである・・・! 『街談文々集』に文化十一年のこととして、そこに安永の末ごろからとあるのだから三十年以上 前から、一人の女乞食が江戸の町を物乞いして歩いていた。もし彼女が乞食をはじめたころに 二十歳だったとしても、文化十一年には五十婆さんになっているはずなのに、少しも年老いず、 容色(きりよう)も衰えなかった。時の人々はこの女お菰(こも)さんを仙岱狂女(せんたいきょうじょ)と呼んだ。 清水の次郎長ほまだ博打打ちにならぬ若い衆だったとき、家を飛びだしたが、その旅先で千里 のお竹という狂女の乞食に会い、食物や銭を与えて親切に扱ってやった。それ以来、次郎長には 運が向いて来たのだと、後年、山岡鉄舟が人に語ったそうだ。たぶん、仙岱狂女にもそんな話題 があったことだろう。そして本田美禅の『お洒落狂女』という時代小説は、この仙岱狂女がモデ ルだと思われる。 「怪奇妖怪年表」には、不可解な″妖虫″のこともしばしば出ている。このあたりでそれを一束 しておく。
 まず早いものでは承和十三年(八四六年)、出城の国の二つの郡に、赤い体、黒い首をしたハチぐらいの虫があらわれ、しきりに牛馬に咬みついてそれを殺した。当時これをもう虫と称した。慶長年間に南蛇井源太左衛門という盗賊
があった。こやつが召捕られ、斬られたあと、その死体を埋葬したところから、囚虫ともいうべき″あたかも縄をかけられた囚人のような虫″が多数 発生した (『煙霧椅談』)。
 宝永七年(一七一〇年)には、京都の各家の屋根裏に怪虫が発生し、大いに人々を悩ました。 人はこの面妖な害虫をジュコウ虫と呼んだ(『新補倭年代紀』)。 一七〇三年には京都商人の子で長三郎という十二の少年が、腹に腫物ができて苦しんだが、その腫物が口を利いたり物を食ったりする(『新著聞集』)――これは妖異譚にはよく出てくる
人面疽(にんめんそ)の怪″であるが、元文三年(一七三八年)、丹波の農家の女房のお腹で、口と同じようにしゃべるものがあり、しかも、何かいうと答えるというのでいっそうの怪事。これを応声虫と唱えた (『閑田耕筆』)。 『塩尻』 には京都の少年長三郎と同じ症例を述べ、菅玄際(かんげんさい)という名医が、腫物がいやがって食お うとしない薬をむりに食わせることによって、応声虫を下した。トカゲの如くにして額に小角 あというから、応声虫という奴は爬虫類のような体内寄生虫らしい。
 囚虫や嶋村蟹のように、死後に怨念(おもい)が残って、虫に化すというのも、いわ珍る「化けて出る」 ということの一つの形であろう。そういうケースが年表にももう一つあって、それは吉六(きちろく)虫。 出典(でどころ)は『怪談登志男』。年代は宝暦八年(一七五八年)。下野の国の吉六という人物、六兵衛という 男に何かのことで馬鹿にされ、ひどい侮辱を受けたのを怨みに思い、六兵衛を殺して自分も獄 に下った。ところが処刑されないうちに牢死し、その後、吉六虫という虫に化して、関係者すべ てを戦慄させたという。
 これらの中には、たとえば牛馬を害するというもう虫のように、現在なら知られている何らかの 外部寄生虫に比定出来そうなものもある(瀧沢馬琴の『八犬伝』第七十回に、薬用になる虫の名として、名だけは出ている)、ジュコウ虫もあるいはそういうケース、たとえばドクガの幼虫あたりで あったかも知れない。しかしそれ以外の怪虫たちは、いったい何であったか推測のしようがない。たとえば腫物が人の顔のように見える人面疽の話は、それだけで充分怪異であるが、それが ものをいうとか食べるとか、体内に寄生している応声虫という爬虫類のような奴であったとかい うことになると、
真怪″としか言いようがなくなる。
 これが外国の例になると、妖虫怪虫列伝が書けるくらいで、たとえば李朝のころ、京城(ソウル)に伝わる 物語と、『聊斎志異』 に・・・つまり韓国と明末清初の中国に両方例 のみられる酒虫。これが体内にいると、その人は大酒飲みになるし、それを下して、捕えて水に入れておくと極上の酒になるという。 道教の方でいうのは三尸(さんし)の虫。これは天上の玉皇上帝のスパイみたいな奴で、すべての人の体内にひそみ、毎年庚申(かのえさる)の夜、体内をぬけ出して、その人のやったことを細大もらさず玉帝に報告する。その夜、眠らなければ三
の虫が出ていって玉帝に告げ口することも出来なくなるとい うので――庚申待(こうしんまち)という習慣が出来たのだそうだ。
 高麗時代の韓国にいた不可殺(ブルカサリ)という、「鉄を食う怪虫」もあれば、中国の胡人採宝譚に出てく る消麺(しょうめん)虫というのもある。阿片にも、阿片虫というのがいて、それが禁断症状をおこして阿片 を吸わせるのだそうだ。 おそらく、
浮気の虫とか、″虫が好かない″という考え方は、このような、なんでも″腹の 中の虫のせいにする傾向から来ているに相違ない。

 

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