ロビン・グッドフェロー
――『真夏の夜の夢』の人気者――


 フィリピンにウチワムシというオサムシ科の甲虫類がいる。中心になる体はまあオサムシ型だが、その左右がうすくひろがって、ウチワ状に突きだしている。頭部も扁平で細長くのび、狭いところや奥深いところにもぐりこんで、獲物である他の虫を探すのに適応している。
 フィリピンにすむ白人たちは、この超奇虫にホブゴブリン・ビートルという名をつけた。
 ゴプリンとか、ホブゴブリンとよばれるものは、イギリスの田園地方や森林に跳梁する小人というか、いたずら者の小フェアリーというか、そんな存在なのである。一般的な妖怪のイメージからは少々ずれているかもしれない。
 それというのもこのホブゴブリンは、いいこともする「家の守護霊」めいたところもあり、いたずら小僧で愛嫡者という一面をもっているからである(しかし、日本の座敷童とて”いたずら小僧で愛嬌者”ではないものの、「家の守護霊」的要素は持っているので、やはり妖怪といって差し支えないだろうか)。
 いわゆる妖精という日本語も、イギリスやドイツなどの超自然界や物語の世界に当てはめてみると、総称としてはまことに都合のいいことばだということがわかる。かつてオードリー・ヘップバーンは無名のころ、ひらりと自動車から下りるのを見て、有名な映画監督がオーと叫んで、

 ――エルフィン!
 と呟やいた。それが彼女の大スターになるきっかけであったという。
 この場合のエルフ、エルフインはかわいらしいすばしこい、夢のような動きをする小妖精というイメージになる。エルフとかエルフインは″妖精族″とでもいうべく、むしろ学術的な用語に近いというが、ホブゴブリンもその中に入る。イギリスで、ブローニーとよばれる小妖たちもそれである。そして、ロビン・グッドフェローはその中でも、特に有名な小妖の一つなのだ。文芸作品にもよく登場し、シェークスピアが名作『真夏の夜の夢』を構想するとき、参考にしたらしい『ロビン・グッドフェローのおかしな悪戯(いたずら)物語』というのはその一つであった。
 シェークスピアはこの夢幻劇の中でさかんに活躍するパックという小妖と、ロビン・グッドフェローとを、「本来は同一物にあらざるに、混合せて此一性格を作り做せり」(坪内造遥)。
 漫画雑誌「パック」はこのパック君からとって名づけられた。その「パック」誌上に、シェークスピア全集の訳者坪内逍遥は「パック君の自叙伝」という戯文を書いた。
 この戯文と来ては、実に空前の軽妙さで、その中でパックは、

 ――僕は異名や綽名(あだな)には随分富んでますぜ。先づ本名のパックの外に、ロビン・グッドフェローね。それから、僕の面構えから格構がお粗末だからって、ホブゴブリンね。醜様(ぶざま)な小悪魔ッてことでさ。それから挑灯(ちょうちん)太郎またはウィル・ウィス・ア・ウィスプなどとも呼ばれまさぁ。
 と、ロビン・グッドフェローやホブゴブリンは自分(パック)の別名だということを明らかにしている。

 パック、プーカ、ポーカ、ブッカなどとも発音され、イタリア語源で、「どれも意味は小悪魔てのですから、ま早い話が化茶目ですが、一寸哲学臭く言やア超自然の悪太郎でさア」とパックは誌上でしゃべりつづける。
 ロビン・グッドフェローとは無関係だったのに、「沙翁(シェ―クスピア)て作者めが、『真夏の夜の夢』て変妙来な劇を書きおって、其の中で、どういう料簡だか、ロビンと僕とを一しょくたにして書いてしまやアがったんで」「あいつめ化けさせるにも事を欠いて、二疋を一疋に縮めやがるんだもの」 と、しきりに憤慨してみせる。
 ロビン・グッドフェローについての説明がそれから始まるのだが、その長広舌の達者で長いこと、手のつけようがない。
 ――ロビン小僧ッてのはね、ソレ、あの日本の三輪の神様とやらのように、ある雄の妖精が、ある人間の娘に通って、生ませた小僧なんです。だから妖精と人間との雑種(あいのこ)なんだ。
小僧め五歳六歳の頃から大の茶目で、近所界隈(かいわい)の鼻つまみであった。で、さすがに甘い母親もとうとう近所合壁の苦情が耐えられなくなって、厳しく折檻しようとすると、奴め、忽ち家を飛び出し、それから広く世間を相手に、行く先々で勝手放題の超茶目修行をおっぱじめた。…
 この生いたちと家出は、どこかJ・M・バリーの『ピーター・パン』に似ている。もちろん、ピーターの方がずっと「よい子」だが、たぶん作者バリーはこのへんから『ピーター・パン』の着想を得たのであろう。
 その後、ロビン・グッドフェローの活躍はほほえましいどころの騒ぎではない。小鳥から美人から馬から、何にでも変身する、根性曲がり、欲ばり男、好色おやじなどをやっつける。とくに、正直者や恋人同士や、せっせと糸を紡いでいる娘などは手伝ってやったり助けてやったりする。
 このいくぶんの善行が、この妖精が悪魔ではなく、地獄王ルチフェルの管下にはいない証拠であり、また人気のある理由で、しかもそのやり方がふるっている。彼に手伝ってもらった娘や善良な女房や、村の老女が、さてはロビン・グッドフェローが助けてくれたのだと悟って、ミルクとクリームをお皿に入れて出しておいてやる。これを忘れると、
 ――気のきかねえアマめ、もう来てやんないぞ、もう手伝わねえからナ!
 という意味の歌をうたって、ホゝゝゝゝゝ! と高笑いを残して、どこかへ吹っとんでいってしまう。
 乞食のまねをして、人が銭をやろうとすると「ホホゝゝゝゝゝ!」である。夜ホトホトと戸をノックして、ハーイ、どなた? と出てゆくとたん「ホゝゝゝゝゝ!」もしかわいい娘が出ると、

スマック! アッというまにキスをして、「ホゝゝゝゝゝ!」と消えてしまう。このいたずらと、歌がうまいのが、ロビン・グッドフェローの特性であった。しかしその骨法はどこか日本の河童や狐、狸の類に似ているかもしれない。

 ロビン・グッドフェローは今では日本の文学者までが、パックと同一人物あつかいするようだが、むろん元来はコマドリのことである。
 そこで「バットマン」のコンビ少年ロビン――ディック・グレイスンまたはジェースン・トッドを、コマドリ君と愛称する人もあるが、いずれもコマドリのようにかわいくて、すばしこくて利口だというイメージを負うている。
 そこでもう一人の世界的に有名なロビン――すなわちアーサー王と並ぶイギリスのナショナル・ヒーローの一人、ロビン・フッドも、妖精ロビン・グッドフェローと無関係ではない。…
ロビン・フッドの「フッド」はチュートン族の神話に出て来る妖精の名であるからうんぬんと説くサー・シドニー・リーのような人もあらわれている。これは「英国伝記大辞典の主幹の一人である」ということだ (『ロビン・フッド伝説』上野美子著・研究社出版)。
 ロビン・グッドフェローも、パックもその特性はいたずらもするが多少のよいこともすることである。おそらくロビン・グッドフェローが人間と妖精のハーフだといわれていることは、当時のイギリスの田園社会に生きる人々が、王子や貴人の子を授かりたいと思っていたことを示すのかも知れないし、それがいたずらの烈しさに、叱ると家出してしまったというのも、個性の強い子供は、平凡で、しかも拘束力の強い農村にはいられなかったのだということであろう。しかしその母は飛びだしてしまった子を愛惜し、ときどきひそかに帰って釆ては、こっそり仕事を手伝ってくれるといいなあ、と望み――そうしたら、好きだったミルクでもクリームでもたっぷり与えるのになあ、と袖に涙をかくして、思ったことであろう。そしてその幼い家出人も、こっそり村に帰って来ても、いたずらは止まなかった……このあたりの反映が、ロビン・グッドフェローのいい伝えの中にあるのではあるまいか。それはまた、あるいはヘンゼルとグレーテルのような、森にすてられた子だったかもしれないし、その子たちがお菓子の家の魔女に捕われたりしないで、自然の中に生きのびていたこともありうるのである。有名な「アヴェロンの野生児ヴィクトール」のように、決してオオカミに育てられたりしないで、森の中でひとり生きぬいていた子供の実例は、「クラーネンブルグの娘」
(一七一七年)、「ハメルンのピーター」(一七二四年)、「シャンパーニュの娘」(一七三一年)、「リエージュのジャン」(不明、一七〇〇年代)をはじめ、たくさんあるからである。
 さらに想像すれば、これらの野生児(ホモ・フェルス)たちが故郷の近くの森でいたずらをしたばかりか、何人か集まって「群れ社会」を作っていたのが、とりも直さず『真夏の夜の夢』に描かれたタイターニアとオーベロンの妖精国であり、コナン・ドイルがその写真を調べたという妖精の「実在性」だったかも知れないのだ。

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