竜について

 竜についての見解は、西洋文化圏と東洋文化圏で随分違っている。

 ここでは西洋の竜を「ドラゴン」もしくは「竜」、東洋のそれを「龍」と表記することでその違いを表現するものとする。

 また、竜の具体的な説話については後程ご紹介するとして、ここでは竜というものの存在そのものについて見ていきたいと思う。

 それではまず、西洋のドラゴンについて語ろう。

 先ず、竜のモデルは、といえば、皆さんも良くご存知のとおり、先史時代の恐竜や蛇などの爬虫類である。

「ドラゴン」と言う言葉の原型は「ドラッヘ」(ギリシャ語のドラコーン)という語で、もともと「蛇」を意味するものである。この「ドラッヘ」なる蛇竜は、大きなワニのような顔をしていて、牙のある口と獲物を捕らえる舌を持ち、鱗状の堅い皮で覆われ、背中には櫛状の刺があり、鉤爪を持った短い足、蝙蝠のような羽と強力な長い尾を持っていた。この生き物は水中、或いは地上(洞窟)に生息していたが、空を飛ぶこともできた(飛行竜)のだそうだ。

 さて、それではここで、心理学的な「ドラゴン」というものについて迫ってみよう。

 ドラゴンとは、人間の心に棲む悪と破壊的な力の象徴であり、人間の内面世界の居住者である。

「竜は人間の弱く無防備な意識を育て支えるか、もしくはそれを飲み込み破壊する、人間のプシュケ(魂)の深くに棲む非人格的な力の化身である」とも言える。

また、西洋の竜にまつわる逸話といえば必ずと言っていいほど竜退治が出てくるのだが、これは、自意識と無意識の制御されない、飲み込む力との間に生じる、命を脅かす戦いを示す元型的な象徴である。

 良く分からない方もいらっしゃるかと思うので、分かり易い言葉でまとめよう。

要するに、西洋の竜とは「人間の破壊的な心の象徴」であり、竜退治は「無意識に潜む不安や破壊衝動を自我で制する事」だということだ。

 ではここで「神話の竜退治」についての心理学的な解釈について語ろうと思う。

有名な心理学者C・Gユングによれば、〔神話の英雄は「目覚めた自我の典型的な姿」であり、その冒険行は「自己化の道」である。水は「集合的無意識の象徴」であり、水から立ち上がったドラゴンは、その否定的な側面をとって意識される「集合的無意識の中にあるグレート・マザーの典型」である〕らしい。

 

 これでは意味がさっぱりわからないと思うので、ここで補足を。

C・Gユングは、人間の心というものは人それぞれ違うが、深層意識の中には万人共通のファクターがいくつも存在している、とした。そのファクターのことを元型(アーキタイプ)と呼び、代表的な元型は影(シャドウ)、太母(グレートマザー)、アニマ、アニムス、老賢者(オールドワイズマン)の4つである。大雑把に言えば、、これらの元型が外界の刺激を受けて互いに反応しあい、人の思考・行動パターンを左右する、というわけだ。

そこで、上記にあるグレート・マザーが何を象徴しているかというと、これは「無意識の象徴」「常に飲み込まれる脅威に晒されている自我が生まれ出でてくる根源」なのである。勿論良い意味での解釈もあるのだが、竜退治の竜に現れるグレート・マザーの性質は否定的な母親像を表す。例えて言えば、神話の竜退治における英雄は「子供(自我)」であり、竜は「母親(無意識)」なのだ。子供が成長して自立しようとするのを、過保護な母親が妨げようとしているようなものなのである。

 ここで本来の竜の話に戻るが、西洋の竜といえば絶対に無意識だの破壊のだのといった人間の心の象徴かというと、そういうわけではない。西洋の竜にはもうひとつの意味がある。

 それは、元々は古くからその地に伝わる土着の神が、移民や植民等によって異民族が入ってきた際に、邪悪な存在として作り変えられてしまったものだ。

異民族が入ってくると、当然土着の宗教とは異なる宗教、異なる神々が入ってくることになる。当然新しく入ってきた人々は自分達の宗教を原住民たちに広めようとする。とはいえ、古くからの信仰を捨てさせ、新しい宗教を受け入れさせるのは難しい。そこで土着の神々を邪神や悪魔といったものに作り変え、自分達の信仰する神々によってそれらを打ち倒す、という神話を作るのである。こうすれば新しい宗教も比較的受け入れられやすい。

 特に竜の場合は、元々地母神と呼ばれる類の神々である場合が多い。

 そもそも竜のルーツは大蛇である。蛇は脱皮し再生していく姿から「自然の永遠の循環の象徴」とされる。このような特徴から古代の人々は、万物が生まれ、また還っていく大地を連想したのであろう。これが正しい神によって倒され、その死体から天地が創造されて世界ができた、というのが神話でよくある「天地創造」である(一神教では、世界は全能にして父なる神が創りたもうた、という事になるのだが)。

結局のところ、竜というものはいかにも邪悪なもの、というように思われているが、神も魔物もそう大差は無いのだろうと私は思う。

 次は東洋の龍について見てみよう。

東洋では、龍は豊饒な大地や皇帝の権力、創造的なもの等の象徴であり、隠れた宝(英知、幸福、長寿)の番人である。

特に中国では龍は最も古い象徴であり、紋章動物である。肯定的な力を持った善意の霊である。龍は天上の龍として神々の居住を見張り、龍神として、雨や風を統括し、豊かな実をもたらす洪水を起こし、地龍として川を清め、海を深くする。そもそも中国神話では世界や人間といったものを創造したのは龍神の女渦と伏義であったという。その後中国は彼らの子孫である黄帝に治められ、更にその子孫が夏王朝を建てる、というのが史実以前の中国の歴史、という事になっている(最も、そんなものは神話であって歴史ではないと言う人もいらっしゃるらしいが)。それぐらい中国では龍は信仰されているのだ。

他にも東洋にはインドや日本の龍(但し日本の龍は中国から来たものなのだが)がいるのだが、やはり東洋の龍は西洋の竜に比べて「龍神」「天の遣い」的な要素が多く、人間を加護するものとされているようだ。

 何故西洋と東洋でこれほど竜という存在に対する扱いが違うのか。

 それはどうやら思想の違いによるものらしい。

そう、西洋思想は二元論的であり、東洋思想は包括的なのである。

 西洋思想は「敵か味方か」というある意味非常に分かりやすい考え方である。彼らが信仰する神は「善」であり、それに反するものは皆「悪」なのだ。故にドラゴンは「邪悪なものの化身」として描かれる。

 一方、東洋思想は「万物流転」「輪廻転生」的な部分がある。

全てのものが流れ、めぐりめぐっている以上、「絶対不変な善」や「絶対不変の悪」などというものは存在しないのだ。

また、タイジー(対極)といって、相互に補い合い依存しあっている根源的な力である陰と陽を表す中国の象徴にも見られるように、東洋では陰も陽もどちらも無くてはならないもの、互いに依存し合うものであるとされている。どちらかが完全にどちらかを葬ってしまえば、世界のバランスが崩れてしまう。故に「陽」と「陰」は在っても、「善」と「悪」はないのだろう。

 このような東西の思想の違いが竜の存在にも相違を与えているのだろうと思われる。

しかし、こうして改めてみてみると、西洋の「破壊の象徴」たるドラゴンも、東洋の「創造を司るもの」としての龍も、やはりどちらも実に興味深いものだと思う。その存在そのものは勿論のこと、その裏に隠された人々の心理、思想、倫理といったものも、非常に興味深い。

幻想的な物語の竜もいい、ゲームのドラゴンのように強いモンスターとしての竜も面白い。しかし、人々の思想の象徴としての竜こそが本当の意味での竜の正体なのかも知れない。

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