ナバテア人以前 遊牧民族ナバテア人 ナバテア王国 |
ナバテア人が歴史に登場するのは紀元前4世紀のことである。 それより前、紀元前6世紀、後にナバテア王国が栄えることになる土地には、エドム人が住んでいたと言われている。 エドム人はアラブ系の民族で、山脈から銅や鉄を採掘し、また、交易路の十字路を支配していたためそこを通る隊商から利益を得ていた。そのため、彼らの領土の西にすむユダヤ人とは、交易路の支配権を巡って長い間敵対関係にあった。 ソロモン王の時代、エドム人はユダヤ人に敗北し、交易路はユダヤ人の支配下に入る。 しかし200年後、紀元前587年に、バビロニアがユダヤ王国を征服し、ユダヤ人は「バビロンの捕囚」となった。 その後ほとんどのエドム人はユダヤ人がいなくなった土地に住み着くようになったが、ごく少数のエドム人は元々彼らが住んでいた土地、即ちエドムに留まった。 |
ナバテア人は、もともと遊牧民族で、今のヨルダンやイスラエルの南部に住んでいた。ナバテア人はこの頃はまだ文字を持っていなかったようだが、周囲の国の人々が彼らのことを記録に残している。 彼らは羊を放牧したり、隊商を襲撃したりして暮らしていたようだ。 紀元前 312年に書かれた歴史書には、「彼等は南アラビアとガザの間を結ぶ貿易も従事している」という記述も見られる。この記録が、ナバテア人が歴史に登場する初めてのものである。当時の人口は1万人ほど。この頃から、ペトラを戦いの時など一時的な隠れ家のように使っていた。 しかし100年後の紀元前2世紀、人口の増加が深刻な問題となる。周囲の文明の記録には、ナバテア人の社会が何十万という人口を抱えていた、とある。 また、その他「多くの村が王によって支配されている」とか「馬も使うようになった」とも書かれた。 馬の使用により、ナバテア人は騎馬部隊を持つようになった。 |
人口問題の解消という意味合いもあり、ナバテア人はその頃定住生活に移行した。 彼らは定住の地にエドムを選んだ。少数のエドム人達が暮らす土地である。彼らは争うことなく、穏やかに統合したようだ。エドム人はナバテア人に陶芸の技術を教え、ナバテア人は後に非常にすぐれた陶器を制作するようになる。 エドムに定住してからしばらく後、ナバテア人はペトラを占拠する。ペトラは通商上の要地にあり、以後は隊商都市として機能するようになる。 ペトラにおいて、彼らは非常に平和的で高レベルの生活を営んだ。王を持ちながらも政治は民主的で、奴隷はいなかった。また、すぐれた灌漑・貯水システムを持ち、砂漠の土地であるにもかかわらず水には不自由しなかった。農業も行った。 後にエジプトとシリアの間で行った長期に渡る戦争が、ペトラをさらに繁栄させる。交易は戦地ではなく、平和なナバテア人の領土で多く行われるようになった。ナバテア人は権力を増し、領土も拡大した。この頃、北はダマスカスまでがナバテア人の土地だったらしい。 最盛期は紀元前1世紀頃。ペトラの人口は2万5000人以上、平屋根の住居がペトラの中庭にぎっしりと並び立ち、郊外にも1万人が暮らしていた。 しかし紀元頃になると、諸外国からの度重なる攻撃を受けるようになる。特にローマは、紀元前63年の攻撃をはじめに、以後幾度も攻撃を繰り返した。ナバテア王国の国力は次第に衰え、ついに紀元106年、首都ペトラをローマ帝国に占領される。 その後は、ローマ帝国の一州都・属州アラビアとして支配される。 多くの建物がローマ風に造り替えられるが、この頃ペトラに大地震が起こる。イェラシュやパルミアなど北方の都市の繁栄に伴い3世紀に交易路が変わったことが決定打になり、商人達も、交易路を守るためのローマの駐屯兵も姿を消す。 後に二度地震があり、紀元350年にはペトラは事実上滅びてしまう。 その頃にはナバテア王国の他の都市も、その土地の人々が細々と暮らすだけになっていたようだ。 ペトラに関して残っている記録は、7世紀にイスラムの支配下になったとき、アラビア人が暮らしていたこと。12世紀の十字軍時代に交易拠点として要塞が築かれていること。13世紀にベドウィンの小さな村になっていたこと。それから先は一切が分からない。1812年の発見まで、おそらくはベドウィンが暮らし続けたのだろうと思われるが、ペトラは歴史から完全に姿を消していた。 |