古代琉球の歴史
 top > 古代文明 > 古代琉球 > 歴史


古代琉球の歴史



先史時代
グスク時代
三山時代
琉球王国


先史時代

●琉球弧の形成●
九州の南から台湾へと点々とつながる飛び石のような列島は一般に「琉球弧」と呼ばれる。今で言う、薩南諸島と南西諸島(含む琉球諸島)である。
これらの島々は、太古は海の底だった。それが約1500万〜1000万年前頃に持ち上がって陸地化し、中国大陸や九州とつながった。この頃は大陸と陸続きであったため、様々な生物の往来があった。ゾウやシカの化石の発見、また、「生きた化石」と呼ばれるイリオモテヤマネコの生息がその証拠とされている。約1000万〜200万年前頃に大陸から一度切り離され、約150万年前に再度中国大陸とつながるが、約2万年前には完全に離れて島化し、その後しだいに島々が小さく分かれ、現在のような形になったと考えられている。

●沖縄の古代人●
沖縄にいつ人類が住むようになったかは、はっきりしない。琉球諸島最古の人骨は、那覇市で発見された山下洞人、3万2000年前のものであるから、その頃には旧石器人がいたようだ。
 その他、琉球諸島で発見された人骨には、具志頭村の港川で出土した港川人がある。これは約1万7000年前のものである。

●旧石器時代●(〜B.C.8000)
港川人の時代は、考古学上は「後期旧石器時代」と呼ばれる。洞窟で暮らし、中期以降の埋葬などの文化、宗教の芽生えを持ち、石器を主な道具として生活していたとされる時代である。

●新石器時代●(B.C.5000〜12C)
一般的に弥生時代、縄文時代と呼ばれているのが新石器時代だが、琉球の新石器時代は本土のそれよりも長く、平安の頃までが新石器時代であった。貝塚などが築かれた。
 本土が弥生時代を迎えていた頃、南西諸島の人々は、九州の人々と貿易を行っていた。南西諸島でとれる貝類を輸出し、本土から弥生土器や金属製品・ガラス玉などを輸入した。貿易は古墳時代まで続けられ、輸入品も穀物や金属器・布などが増えたが、琉球には弥生時代の特徴である稲作農耕は伝わらなかった。琉球の人々は縄文の文化を残す生活を続け、漁獲採集の時代、貝塚の時代が長く続いたのである。
なぜ水田農耕が伝わらなかったのか、という点については、農耕によって栽培する植物は、いわば道具化されたものであるから、という説がある。琉球人にとって動植物は神であり、「農耕」という行為を受け入れがたかったのではないか、ということだ。

●3つの文化圏●
先史時代に、琉球列島は文化的に3つに分かれた。薩南諸島の北部文化圏、奄美諸島・琉球列島の中部文化圏、そして宮古・八重山諸島の南部文化圏である。
北部文化圏は本土の文化的な影響下にあり、中部文化圏では北部文化圏から南下してきた縄文文化が定着し独自の発展をとげた。
南部文化圏は、いささか特殊である。北部・中部がいわば日本列島の一部として発展したのに対し、南部はフィリピンやインドネシアなどの影響を受けて発展した。琉球諸島まで南下した縄文文化は先島諸島には届かず、本土とはかけ離れた文化を築いた。
琉球諸島と先島諸島は、古代人にとっては遠すぎたのだろうと考えられている。

●土器と貿易●
琉球で確認されている最古の土器は、爪型紋土器と呼ばれ、約7000年前のものである。
爪型紋土器は九州の縄文文化が伝わってつくられたもので、藪地洞窟遺跡、渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡で発掘されている。
また、縄文時代前期に本土でつくられたと見られる土器が出土していることから、この頃は九州と行き来があったようである。しかし縄文時代中期になると、九州では山岳系の人々が権力を握ったため海洋貿易は行われなかったらしく、輸入品らしきものは出土しない。後期は南部の影響力が強かったが、晩期には九州の影響は色濃く見られる。
戻る


グスク時代

●「グスク」●
グシクとも言われる。語源についてははっきりしない。現在「」と表記されるが、グスクとつくものすべてが城状というわけではなく、中には集落跡もある。
権力者が築いた、集落の中心地くらいの意味合いのようだ。

●集落の成立●
11世紀頃、それまで入ってこなかった水田農耕が琉球地方に伝わる。飢饉があったとか、仏教の布教が契機だったなど諸説ある。
農耕生活が始まり、12世紀頃から鉄器も使われるようになる。この頃から人々は集落生活を送るようになった。
集落は「根所(ねどころ)」、集落の長は「根人(ねびと)」と呼ばれた。この根人の中で特に力をつけたものを、按司(あじ)と呼んだ。

●生活●
この頃の人々は、農耕のため小高い丘や斜面に住み、作物は米や麦であった。鉄器の他、須恵器、陶磁器などが使用され、按司に率いられ他の集落と戦闘行為も行うようになる。集落の中心であるグスクは次第に要塞化した。 また、この頃から交易が非常に活発化し、按司はさかんに貿易を行った。
戻る


三山時代

●三山の成立●
按司が群立していた時代はやがて終わり、14世紀頃から、按司の中でも特に力を持つ者、「世の主」が登場する。集落は統合され、最終的には沖縄本島が三つに分かれ統治されるようになった。
北から順に北山、中山、南山と呼ばれ、特に中山が勢力を誇っていた。
三山はそれぞれ、北山が今無仁(なきじん)、中山が浦添、南山が島尻大里(しまじりおおざと)のグスクを拠点とした。
●朝貢●
多くのアジアの古代王朝の例に漏れず、三山の王達も朝貢を行った。
一番最初に行ったのは中山王の察度(さっど)、1372年のことであった。当時の中国王朝はで、これが琉球と明との正式な国交の始まりであるとされている。
続いて南山の承察度、北山の怕尼芝(はにじ)も入貢し、三山すべてが明と冊封関係を結んだ。

●尚巴志の即位●
中山王の察度が死んだ後、王位は武寧が継いだ。だが、武寧王の評判はあまり良くなく、即位後10年で佐敷というグスクの按司であった尚巴志によって追い落とされる。尚巴志は、父である思紹を国王とし、これによって中山に第一尚氏王朝が興った。 思紹は明と冊封関係を結び、中山はよく栄えた。

●北山の滅亡●
1416年、当時の北山王攀安知(はんあんち)が中山侵略を準備しているという事を聞き、思紹は巴志に北山攻略を命じた。
巴志は約3000人の軍を率いて(当時の沖縄本島の人口は約8万だった)今帰仁グスクを攻めた。しかし今帰仁グスクは天然の要塞であり、また、攀安知は武力の強化に力を入れた按司であったため、攻城は三日三晩続けられたが、一向に成果はなかった。 そのため巴志は、攀安知の腹心の部下であった本部平原(もとぶてーはら)に密使を送り、彼を説得、寝返らせることに成功した。
翌日、本部平原は攀安知に、城外へ出て按司自ら戦い武勇を見せつけてはどうかと持ちかける。攀安知はその提案を受け入れ、中山軍と戦った。敗走する中山軍を追う攀安知だったが、その頃今帰仁グスクでは本部平原が城に火を放っていた。
挟み撃ちになり、攀安知は神を呪い、守護神としていた霊石に斬りつけ、直後自害したという。

●南山の滅亡●
1421年、思紹が死に、巴志が中山王となった。
 当時の南山王は他魯毎(たるみ)といい、物欲の強い人物であった。南山にはカデシガー(嘉手志川)とよばれる水量の豊富な泉があり、ある時尚巴志は他魯毎に、この泉と自分の持っている金の屏風を交換しないかと持ちかけた。他魯毎は喜んでそれを承諾した。しかし、カデシガーを利用し、また神聖視していた農民達は憤慨し、他魯毎は民衆の支持を失った。
 そのせいで、南山は中山に破れたと伝えられている。

 1427年、中山は南山を滅ぼし、第一尚氏王朝による沖縄本島の統一が完成する。
戻る


琉球王国

●第一尚氏王朝●
尚巴志は、浦添グスクから首里グスクへと拠点を移した。現在首里城と呼ばれているのは、首里グスクの復元である。
貿易が盛んで、港のあった那覇から首里グスクまで虹堤(ちょうこうてい)が築かれた。また、神社仏閣の建立、龍潭(りゅうたん)の建設などが行われた。
冊封体制は維持され、明の他にも東アジア・東南アジア諸国とも交易があった。

●第二尚氏王朝●
尚巴志が開いた王朝は1469年に滅びる。伊是名島の農夫出身で当時の外交易長官であった金丸がクーデターを起こし政権を奪取したのだ。 しかし、金丸は大きな改変をしたわけでもなく、また中国との関係に配慮して尚氏を名乗ったので、“尚王家”が滅びたわけではなかった。よって、これ以前を「第一尚氏王朝」、金丸のクーデター以降を「第二尚氏王朝」と呼ぶ。 金丸は即位後、尚円王を名乗った。

●尚真王●
琉球王国は、第二尚氏王朝の三代目の王、尚真(しょうしん)の時代に最盛期を迎える。時代はちょうど、東アジア各国の商人がさかんに交易をおこなっていた時代、華僑がアジア全域に進出していった時代であった。
琉球王国は、東南アジアの各国と交易を行った。相手は、当時もっとも栄えていたシャム(現在のタイ)をはじめ、パレンバン、ジャワ、マラッカ(マレーシア)など。輸出品は、明との冊封によって手に入れた中国産の陶磁器や絹織物、琉球産の硫黄、日本産の工芸品などで、輸入品は、染料、胡椒、南蛮酒、象牙などであった。
しかし、次第にヨーロッパが介入してくるようになると琉球は市場から追い落とされ、1570年のシャムとの交易を最後に、東南アジアとの交易は途絶える。
また、尚真王は地方分権的だった政治体制を中央集権的にととのえ、造営事業や文化事業にも力を入れた。
特に、沖縄の伝統的なうたである「おもろ」をまとめた「おもろそうし」は、沖縄最古の歌集として、当時の琉球を知るための重要な資料となっている。

●歴史書●
琉球王府は、琉球の歴史を記した本を何冊かつくっている。『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』や『中山世譜(ちゅうざんせいふ)』、『球陽(きゅうよう)』などがそれである。
それらの本には、琉球の初期の歴史や王朝の始まりなどが記されている。
それによると、琉球諸島のはじまりは、阿摩美久(アマミキヨ)という神がつくった島々だという。阿摩美久はその島に1組の男女を住まわせ、2人の間には3男2女が生まれた。長男が王、次男が按司、三男が百姓、長女が大君(国の神女)、次女が祝女(ノロ・地方の神女)のはじまりになった。
王は天孫と名乗り、人々に農耕や建築を教えた。
天孫王の王朝は長く続いた。その次の王朝は、12世紀後半から13世紀半ばまで続く舜天(しゅんてん)王統だった。舜天王は、流刑により沖縄にたどり着いた源為朝の子であるという伝説がある。が、史実ではないようだ。
その次は、13世紀半ばから14世紀半ばまでの英祖(えいそ)王統。初代の英祖王は、母親が太陽の夢を見て身ごもった子であるという伝説がある。太陽の子、ティダヌファー伝説である。

●島津侵入●
はじめは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、琉球も兵糧を提供するようにという要求があったことだった。
当時の琉球は大貿易時代が終わり国力が低下しており、また冊封使を迎え入れる時期であったこと、明との関係への配慮など、様々な問題があったが、日本と戦争になってはまずいという理由で軍役を負担した。
朝鮮出兵の後、日本は対中交渉の交渉役を琉球にやらせようとし、それと同時に琉球へ日本への従属を迫った。
琉球は、明との関係を第一と考えていたため、日本の要求には応じようとしなかった。そのため、琉球への交渉を任されていた島津氏は、武力行使に出た。
1609年3月、島津は3,000の軍を率いて琉球諸島へ進軍、戦闘経験のない琉球王国は10日で破れ首里城を明け渡した。
当時の国王尚寧(しょうねい)は島津へ連行され、服従の証文を書かされた。以後、琉球王国は、独立王国を名乗りながらも日本に従属するという立場を取ることになる。
戻る



 top > 古代文明 > 古代琉球 > 歴史