お米と歴史1 紀元前〜平安時代

稲の起源
多くの説があって、メソポタミア付近、東南アジア、サバンナ地帯のどこかだろうと言われています。稲はもともと熱帯地方の植物でした。
今もなお、研究がなされています。

稲の渡来
 日本に渡ってきたのは弥生時代、紀元前300年ごろといわれています。
そのルートは「揚子江から海を渡って朝鮮半島、そして北九州へ」「大陸から沖縄(琉球)、そして九州」「揚子江下流から海岸沿いに北上、満州、朝鮮半島へ」 の3種類が考えられていますが確証はありません。
(しかし、一説には縄文時代の中期にはすでにもう日本に米が入ってきたのでは、というのもあります。)

縄文時代と弥生時代
 お米の栽培が始まったのは弥生時代と言われています。それまで食料を確保する方法は狩猟か採集でした。お米を栽培するようになってから人々は一定の土地に代々住みつくようになりました。弥生、奈良時代頃に食べられていたお米は、糯(もちのよね)と、粳(うるちのよね)の2種類だといわれています。今の食べ方と違い、粥(しるがゆ)という、お米を水でどろどろに煮た(今のお粥みたいなもの)ものを食べるのが普通でした。米は昔から貴重な食べ物で、一般庶民の間で、純粋にお米だけを食べる人は少なく、麦やアワ、ヒエなどの雑穀類を米に混ぜて食べていました。米を保存する方法として、高床式の倉庫が作られ、そこに収穫された米は保存していました。

米に関する法律
 645年に中大兄皇子は大化の改新を行い、世の中が大きく変りました。天武天皇は天皇を中心とする国家をつくるために改革を進め、中国にならって律令という法律を作っていきました。701年にできたその法律は大宝律令といいます。その中で班田収授の法を定めた。
 この法律は「水田を国有化して一定の年齢以上の国民(公民)に一定の面積の田(公田)を与え、死んだら国に田を返す」という法律です。分けられた田んぼを口分田といい、農民はその収穫の3%の稲を国に収めなくてはいけませんでした。

農具の発達と荒れる田
 奈良時代には鉄製の農具が広まり、仕事の効率はぐんとあがりました。また、直接種もみを田んぼにまくのではない、「田植え」がはじまりました。牛や馬を使うこともこのころ始まりました。
 しかし、農民を支配していた地方の国司や郡司は種もみを高い利息をつけて無理やり農民に貸し付け、高い利息をしぼりとっていました。そのせいで農民は厳しい取立てや労役のつらさ、そして貧しさのあまり、自分の田んぼを見捨てて逃げる者が続出し、田んぼが荒地になる土地がふえました。

平安時代の食べ方
 平安時代ころには現在のご飯に近い、強飯(こわいい)と姫飯(ひめいい)いうものが出てきました。強飯は、蒸篭(せいろ)でお米を蒸したもの、姫飯は、釜でご飯を炊いたもので、上流階級の人におもに食べられていました。
 貧しい人達は米を食べるときにお粥にしていましたが、麦やアワ、ヒエを混ぜたり、畑で取れた農作物を混ぜて食べていたのが主流です。

白地図:白い地図工房