お米と歴史2 平安時代〜江戸時代

荘園の発達
 
朝廷は荒地となってしまった田の開墾を奨励しましたが効果があがらず、ついに開墾した土地の私有化を認める法律を743年に出しました。それが墾田永年私財法という法律です。有力な貴族や寺などがこぞって農民を集めて開墾し、私有地を増やしていきました。これが荘園となり、私有地で豊かになった貴族などはますます力をつけて豪族となっていきます。
 荘園を持った貴族達は自分の土地からたくさん税をしぼりとりましたが、さらに荘園から税を納めなくてもよい権利や、国司が土地に立ち入らないようにする権利を朝廷に認めさせました。このように腐敗が進み、農民は荘園領主と朝廷の両方に税を納める、二重支配を受けていました。しかし鎌倉時代の頃には土地をさらに開墾したり、肥料を工夫したり、二毛作をおこなったりして農民も領主や地頭に対抗する力を少しずつ蓄えていきました。

農具の発達と商業の発達
 室町時代には鉄製農具がさらに発達しました。鍬・鋤・鎌(くわ・すき・かま)などの農具です。また牛や馬を使っての農耕もさらに広まり、肥料に灰を使うようになりました。稲作にはかかせない水も、水車を使ったりして田んぼにひくようになり生産量はさらに増えました。そして米の品種も増えたのもこの頃です。
 手工業がこの頃に発達し、鍛冶や織物などを専門にあつかう人があらわれ、地方には特産品の生産が盛んになりました。またこのように生産物や輸入品の取引が増えたことによって定期市の回数も増えて商業も発達しました。

太閤検地
 時代は戦国時代、豊臣秀吉の支配のころ、農民から年貢を正確に取り立てるために検地を行いました。太閤検地と呼ばれています。村別に耕作地の面積・生産量・耕作人を調べて検地帳に記録していき、それをもとに年貢を直接農民に納めさせました。この制度のお陰で荘園制度はなくなりましたが、かわりに武士が直接農民を支配するようになりました。

江戸時代
 身分制度ができ、士農工商の4つに分けられました。
 江戸幕府や藩の収入のほとんどは年貢によるものでした。収入が安定するように、農民に「慶安の御触書」を1649年に出しました。これは農民が贅沢をしないように普段の生活の内容などを定めたり、田畑の売買を禁止するものでした。農民にも貧富の差があらわれ自分の耕作地を持つ本百姓と、自分の耕作地を持たず人の田畑を借りて耕す水呑百姓に分かれていきました。年貢は収穫の約40〜50%をおさめるという厳しいもので、その他の雑税なども加わり、農民は米をつくっても食べられませんでした。ほとんどが年貢でとられ、残ったわずかな米も生活必需品を買うために売られ、米のかわりにヒエ・アワ・ソバ・ダイズ等の雑穀類や豆類、イモ類、山菜・海草類などを食べて生活していました。天災や飢饉がおきると、百姓一揆打ちこわしが行われるようになりました。
 世の中にお金が大きく出回るようになる(貨幣経済社会)と、農民の中にはさらに貧富の差が広まりました。小作人になる農民も増え、苦しい生活をおくるようになり、凶作が続くと飢え死にする人が増えました。幕末頃は百姓一揆が大変増えました。