四日市ぜんそく

                       Q1 四日市ぜんそくの歴史

                       Q2 四日市ぜんそくの原因とその過程

                       Q3 患者の状態

               Q4 市、国の対策

 

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Q1 四日市ぜんそくの歴史

A1

1960年 四日市第1コンビナートが操業を開始する
1961年 硫黄酸化物によるぜん息患者が多発する
1963年 第2コンビナートが操業を開始する
1964年 公害によるはじめての死者が出る
1965年 市民が「四日市公害患者を守る会」を結成する。

市が公害病に認定された市民(第1回18人)への

治療費の負担をはじめる

1966年 昭和四日市石油が高さ120メートルの煙突を建設する。

以後、150メートル級の煙突が建設されていく

1967年 患者たちがコンビナートの6社を相手に、慰謝料請求の

訴訟をおこす。塩浜中学校3年生の南君枝さんが死亡

し、追悼集会に1500人が参加する

1968年 塩浜中学校が公害をさけて移転する
1969年 大協石油が四日市ではじめての脱硫装置を完成する
1972年 第3コンビナートが操業を開始する。訴訟で患者たちが

勝訴する。三重県が大手29工場に対し、硫黄酸化物の

排出量の低減を指示する

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Q2 四日市ぜんそくの原因とその過程

A2

四日市ぜんそくを引きおこした有毒物質の中で、もっとも影響が強かったと思われている物質は石油を燃焼させたときに発生する硫黄酸化物(SOx)です。

コンビナートの操業が開発されたころは、排出される硫黄酸化物の総量が年間10万トン近くまで増えてしまいました。石油は石炭のように真っ黒いばい煙をださないので、空が黒く覆われることはありませんでした。しかし、石炭よりも、クリーンなエネルギーのように見える石油でしたが、ぜんそくなどの気管や肺の障害を引き起こす硫黄酸化物を多く含んでいました。

そのことから、石炭の黒いスモックに対して、四日市の煙は白いスモックいわれました。四日市のコンビナートでは、中東産の硫黄分の多く含んだ原油を使っていたことが、被害をよりひどくしました。


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Q3 患者の状態

A3

1963年(昭和38年)第二コンビナートが操業開始すると、大気汚染はさらに悪化して、1964年には死亡する重傷患者が出てきてしまいました。また、高齢者の患者が病気の苦しさや家族にかける負担などに悩んだすえ、自殺してしまう事件もありました。1965年に発足した四日市公害患者を守る会の副会長を務め、公害と戦う市民の中心であった大谷一彦さん60歳も1967年6月に加害者の怒りや公害の取り締まりをしない市への不満をつづった日記を残して、自殺してしまいました。同年の10月、中学3年生の南君枝さんが15歳の若さで死亡すると、市民の怒りが頂点に達し、1500人の市民による大規模な追悼集会が開かれました。

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Q4 市、国の対策

A4

@四日市は1965年(昭和40年)に市が公害病と認定した市民に対し、市費で治療費を補償する制度を始めました。当時は国側にも、公害患者を公費で救済する制度はなく、四日市の試みは全国で初めてのものでした。認定患者の数は同年5月に行われた第一回の審査の時は18人でしたが、1967年6月末には、381人、1970年9月末には544人と急増していきました。患者が多くなり、市だけでは治療費を負担できなくなり、国や企業も分担金を出すようになりました。

A四日市の大気汚染を改善したのは、高煙突ではなく、脱硫装置の普及と硫黄分の少ない原油への切り替えでした。脱硫装置とは原油から重油を精製する過程で、硫黄分を取り除く装置のことです。この2つは当時としてもっとも効果的な硫黄酸化物を減らす方法でした。国と企業は硫黄分の少ない原油の輸入を増やすと同時に脱硫装置の開発を進めました。四日市コンビナートでは、 1969年に大協石油が初めて設置し、効果を上げました。

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