水俣病

Q1水俣病の歴史

Q2 水俣病とは、被害は?

Q3 原因は?

Q4 どのような形で体に入ってくるの?

Q5 対応は?

Q6 患者は治ったの?

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Q1 水俣病の歴史
A1 年表にまとめました

1932年 チッソ水俣工場の有機水銀を含む排水の水俣湾
へのたれ流しがはじまる
1942年 水俣病と疑われる患者がでる
1954年 このころたくさんの猫がくるったように死んでしまう
1956年 水俣病の患者発生が公表される
1959年 7月 熊本大学により水俣病の原因が有機水銀
   に汚染された水俣湾の魚介類を食べたことに
よると発表される

10月 細川博士が猫の発病実験を行う

11月 不知火しらぬい海沿岸漁民が工場の操業停止
     を求めて水俣工場に乱入

1963年 熊本大学の研究班が、水俣病の原因は
水俣工場から排出された水銀だということが
発表
1965年 新潟水俣病の発生が確認される
1967年 新潟水俣病患者が訴訟をおこす
1968年 4月、新潟大学の椿教授が新潟水俣病の原因は
昭和電工鹿瀬工場の廃液だと発表

5月、チッソが水銀のたれ流しを中止

9月、熊本水俣病と新潟水俣病が公害病として
認定される

1969年 熊本水俣病患者が訴訟を起こす
1971年 新潟水俣病裁判で患者側が勝訴
1973年 熊本水俣病患者で患者側に勝訴
1980年 熊本水俣病の未確認患者が裁判を起こす
1996年 熊本水俣病の未確認患者とチッソが和解する



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Q2水俣病とは、被害は?

A2

水俣病は、熊本県水俣市を中心にした、不知火海(八代海)で発生した水銀中毒です。
認定患者だけで2000人を超す日本最大の公害病で、四大公害病のひとつです。

水俣病ははじめ原因不明の奇病とされていました。患者たちは伝染病だとおもわれたり、精神病棟に入れられたり・・・。差別的な待遇を受けたひともいました。患者が人目にふれないように、家の奥深くにかくされることもありました。
また、みんなが毎日同じ魚を食べて生活していた漁師の家庭では、家族の全員が発病してしまうということもありました。そして、水俣の魚が売れなくなったために、漁師たちは生活できなくなってしまうこともあり、毒が入っているとわかってはいたものの、水俣の魚をとって食べるしか生活できない人もたくさんいました。


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Q3 原因は?

A3 主に水銀です

水俣病の原因になったのは水銀のなかでもメチル水銀とよばれる、神経細胞に障害をあたえる水銀による中毒でした。体内に入ったメチル水銀は人体の中枢神経や脳細胞をおかしていきました。まず、手足のしびれや言語障害がはじまり、やがて体中がけいれんし、意識がうしなわれ、多くの患者が精神錯乱のうちに死亡してしまいました。

さらに妊娠した母親の胎内で水銀におかされ、病気のまま生まれてくる子供も出てしまいました。この症状は胎児性水俣病といわれ、重症の場合は、精神や運動機能の発達がおくれて、なかには意識のなくなってしまう子供もいました。


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Q4 どのような形で体に入ってくるの?

A4

工場の痔水にまざって海に流された水銀は、まず、プランクトンをとの微生物を汚染しました。そして、プランクトンを小さなが食べ、それをさらに大きな魚が食べ、最後に人間が大きな魚を食べるというふうにして、人体に入りました。この仕組みを食物達鎮といいます。
海水でうすめられた水銀は、小さな生物から大きな生物へと移動する間に、体の中で濃くなっていきます。そのため、水銀は人間の体の中に入るときには濃度が高くなっているのです。
また、食物連鎖は陸上にもあります。植物の葉や実を鳥、家畜などが食べ、そして、最後に、人間が家畜などのに肉を食べるのです。


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Q5 対応は?

A5

1956(昭和31)年にはついに住民の発病が明らかになり、はじめは原因不明の奇病としておそれていました。原因がわかってからも、チッソ水俣工場と国は、排水と水俣病の関連をなかなか認めず、何も対策をとらなかったので、被害者たちは長い苦しみに耐えなくてはなりませんでした。

チッソ水俣工場は戦前からの日本有数の財閥の一つであり、日本の化学工業の先頭をたつ会社でした。敗戦によって打撃を受けましたが、戦後、プラスチックの需要の増大によって復活しました。
チッソ水俣工場の繁栄によって水俣市もいきいきとしていま
なり、引退した工場長が市長をつとめて、議員の多くも工場関係者でした。市の財政がチッソ水俣工場によって支えられていたことが、水俣病に対する行政の対応をおくらせてしまう原因の一つになってしまいました。

ようやく国が動き出して、水俣病が公害病として認定されたのは、最初の患者が発見されてから12年後の1968年でした。1969年に患者は補償を求めて裁判を起こし、4年後に勝訴しました。


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Q6 患者は治ったの?

A6

1968年チッソ水俣工場は水銀の流出をとめ、熊本県は1980年から、10年ぐらいかけて、水俣湾にたまっている水銀をふくんだヘドロをとる工事を行いました。現在では、漁業も再開されています。

しかし、患者の健康は戻りません。1950年代に生まれた胎児生水俣病患者は病気のまま、人生の約半分を生き、今なお病気と闘っているのです。


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