平安初期には依然として唐文化の摂取が続きましたが、九世紀末に遣唐使が廃止され、それ以後しだいに国風化の傾向が強まり、衣服も自然、日本の風土に適する形態へと変わっていきました。この時代の衣服は風雅を好む公家達によって日本独特のものが生まれました。 公家の礼服である男子の束帯と女子の女房装束がその代表です。


女房装束とは、宮廷に仕える上流の婦人の晴の装いで、十二単(じゅうにひとえ)の名称で知られています。十二単という呼称は多くの衣服を重ね着したことから後世にいわれたもので、その数も十二枚とは限らずに二十枚近く重ねたこともあったようです。
この構成の中心となったものは袿(うちぎ)で衿は前合わせ式の垂領(たりくび)で大袖が特徴で、大きくゆったりとした袿は夏の蒸し暑さに対応するために生まれたものですが、逆に冬の保温性に欠け、ここに重ね着の必要性が生じたものでしょう。そして次第に形式化され、袿は何枚も重ねられるようになり、衿もとや袖口、裾にあらわれた重ね色目の階調と対比の美しさや姿の優雅さを誇るようになっていったのです。正装の時ほど袿の数を増やしたのも、暑い重ねによって威厳、権力、富裕性を誇示するためだったと思われます。


女房装束は唐衣(からぎぬ)、裳(も)、袿、単(ひとえ)、袴から成り立っています。一番下には肌着としての白色の小袖を着用していました。袴は足を覆い隠す長大なもので、年齢によって葡萄色と紅色の二種類ありました。重ねを構成するものは単、袿、表着などで形態はほぼ同じです。袿は五枚重ねるのが常であったところから五衣(いつつぎぬ )といわれ、いわるる重ね袿として色目の美しさに趣好をこらしたものです。また重ねが五枚とされたのは平安末期のことで、それまで数の決まりはありませんでした。冬は綿を入れて防寒をしました。打衣(うちぎぬ )を着て,表衣、裳をつけ、最後に唐衣をはおります。


男子の服装は礼装である束帯、略式の装束に衣冠(いかん)があり、その他日常着として直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ )、水干(すいかん)などがみられます。
また、女子の旅装として壺装束や市女笠(いちめがさ)、むしのたれぎぬ などの風俗もありました。

 

写真・図

公家女房晴れの装い
狩衣姿
公家女房五衣小袿
公卿冬の束帯
公卿冬の直衣
民衆婦人姿
民衆直垂姿

 

 

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