平安時代になって、894年に遣唐使を廃止しました。それで、日本は、外国からの文化が、そのあとあまり入ってきませんでした。飛鳥〜奈良時代に入ってきた、中国大陸や朝鮮半島からの文化が、平安時代に、もともとあった日本の文化ととけあって、日本風になりました。そのとき、漢字からかな文字ができたり、日本の雅楽が生まれたりしました。
 
 平安時代に、雅楽が整理され、現在の雅楽に近いものになりました。この日本の雅楽は、そのあと皇室や寺などで大切に守られ、現在まで伝承されてきました。これは、世界でも類を見ない大変貴重なことです。約1200年前の音楽が、その時代のまま受け継がれている国は、日本だけなのです。
富山県高岡万葉歴史館 所蔵
遣唐使の船 (模型)



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  その都から、遣唐使(けんとうし)がたくさんの文化を持ち帰りました。そのうちの一つが、雅楽です。
 ですから雅楽は、もともとたくさんのものを含んだアジア全体の文化だったのです。

 日本は、飛鳥時代に、当時の中国文化を輸入し、日本の国の基礎をつくりました。例えば、政治や法律、都の作り方など、中国をお手本として、多くのものを作りました。

 奈良時代も引き続き、中国を見習っていました。奈良時代の貴族(きぞく)は、漢字を使って文章を書き、中国風の服装で、中国の雅楽を演奏したり、鑑賞したりしていました。当時のアジアの音楽が、アジアの色とりどりの奇抜なファッションで演奏されていたのです。日本人は、わくわくして、その音楽や舞を鑑賞していたのです。それが、かっこいい時代でした。現代の若者が、外国の音楽やファッションにあこがれてまねをするのと似ています。

 有名な奈良の大仏ができたとき、大仏に魂を入れる行事が行われ、大仏殿の前の広場で、このアジアの最先端の音楽である雅楽が演奏されました。

 
 その当時の中国は、アジア全体やヨーロッパなどから多くの文化が集まってくる国でした。シルクロードというヨーロッパと中国を結ぶ道を通して、いろいろな人や文化が交流しました。特に、唐の長安(ちょうあん)(注 当時の中国の都)は、東西の文化が集合する、活気あふれる先進的な都でした。


 600年、聖徳太子(しょうとくたいし)が初めて遣隋使(けんずいし)を随(ずい)(注 現在の中国)に送りました。その後、隋が滅びて、唐(とう)という国になりましたが、日本は何回も中国大陸に人を派遣(はけん)して、その文化をもらい続けました。
 
雅楽にはどんな歴史があるの?