BY 「LITTLE EDEN」様全体の考察
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寄せられた意見#01


■作品掲示板へ寄せられた意見 #01

項目(クリックするとその考察を見ることができます)
 
 《 はやかわ 様より頂いた書き込み 》
 ■「黒衣の歴史家」と「手紙を云ひつけたひと」の台詞
 ■チュンセ=賢治/ジョバンニ、ポーセ=とし、カムパネルラ
   ◇チュンセ=賢治、ポーセ=とし
   ◇チュンセ=ジョバンニ、ポーセ=カムパネルラ


 《 はやかわ 様より頂いた書き込み 》
 賢治の銀河鉄道の初期形には「黒衣の歴史家」が登場しますよね?私はあのせりふが好きなのですが、あの話とそっくりのものを実は賢治は書いているのです。
 トシが死んだときに近所の人たちに配られた「手紙」と呼ばれる文章です。校本全集などでは「手紙 4」だったと思いますが、これを読むと、あの「永訣の朝」の物語版と「黒衣の歴史家」のせりふの組み合わせであることがわかります。しかも登場人物の名前は、「ふたごの星」の名前です。どうして「ふたごの星」の話が出てきて、原稿がぬきとられているかは、きっと想像できると思います。
 というあたりを考えると、銀河鉄道の夜が、トシの死を土台に作っていることが説得力をもつと思います。
 そして、それが最終形では、カットされたということ、双子の星がなくなったことが、物語を賢治個人の物語から脱皮させたいという願いではないかと思うのです。
 という意味では、トシのことは知らずに読んでほしいのかもしれないと思うのです。
 

 このサイトの考察は、「銀河鉄道の夜」の誕生は「としの死」が最もベースとなっていると考えているものが多いので、はやかわさんより「トシのことは知らずに読んでほしい」という意見は、とても気になることでした。私たちはまず、「手紙 4」と「双子の星」を読んでみました。


■「黒衣の歴史家」と「手紙を云ひつけたひと」の台詞


 書き込みにも指摘されている様に、黒衣の歴史家(以下ブルカニロ博士とする)と「手紙 4」の「手紙を云ひつけたひと」の台詞には、共通する部分が多く存在する。それは二人の話し方や、台詞の内容が似ているという点である。第三次原稿で最も重要な役割を果たすブルカニロ博士の台詞と、「手紙を云ひつけたひと」の台詞を照らし合わせてみよう。(「」はブルカニロ博士、『』は「手紙を云ひつけたひと」の台詞を引用したもの)

 「おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
 『チュンセはポーセをたづれることはむだだ。』

 「みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。」
 『どんなこどもでも、また、はたけでははたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。』

 「だからやっぱりおまへはさっき考下手やうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ」
 『ほんたうの幸福をさがさなければいけない。』

 「まっすぐ歩いて行かなければいけない。」
 『ほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向つて進まないか。』

 「あらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ、そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
 『おまへはチュンセやポーセやみんなのために、ポーセをたづねる手紙を出すがいい。』




■チュンセ=賢治/ジョバンニ、ポーセ=とし、カムパネルラ

◇チュンセ=賢治、ポーセ=とし


 「手紙 4」に登場する人物チュンセとポーセは、「双子の星」にて双子として描かれている登場人物と同じ名前である。さらに、チュンセは賢治を、そしてポーセはとしを表している様にも読み取れる。例えば、以下の様な例があげられる。(断りのない「」内の文章は「手紙 4」より引用したもの)

 ・「ポーセはチュンセの小さな妹」
  →チュンセとポーセは兄妹、賢治ととしも兄妹

 ・「ポーセは、十一月ころ、俄かに病気になつたのです」
  →としも病で倒れている
 ・「雨雪とつて来てやろうか」「鉄砲玉のよう」
  →としの死のことを歌った「永訣の朝」に「おまへがたべるあめゆきをとらうとして」や「てっぽうだまのやうに」という共通の記述がある
 ・「ごはんもたべないで毎日考へてばかりゐるのです」
  →栄養失調になるほど、食事を満足にとらなかった賢治に共通する


◇チュンセ=ジョバンニ、ポーセ=カムパネルラ

 チュンセは賢治と、そしてポーセはとしと共通する部分がある例を挙げたが、チュンセとポーセのキャラクターは、ジョバンニとカムパネルラとも共通する。その例を以下に記述する。(断りのない「」内の文章は「手紙 4」より引用したもの)

 ・「ポーセの小さな唇はなんだか青くなつて」
  →「カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて」(六、「銀河ステーション」)病気になって死にそうなポーセと銀河鉄道に乗ったばっかり(死んだばっかり)のカムパネルラの描写が似ている
・「チュンセはコマってしばらくもぢもぢしてゐましたが」
→「ジョバンニはもうどぎまぎして」「カムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったまま」(一、「午后の授業」)ジョバンニがどぎまぎしているのを真似(ジョバンニと同じ様に、答えを知っているのに答えようとしない)をしてもじもじするカムパネルラ、つまり「コマってしばらくもぢもぢして」いるチュンセの行動は、気弱なジョバンニと共通している部分がある
・「チュンセはまるで鉄砲玉のやうに」
→「ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました」(ニ、「活版所」)
・「虎の子供のやうな声で泣きました」
→「誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました」(九、ジョバンニの切符)ポーセを失ったチュンセとカムパネルラを失ったジョバンニは、大声で泣き出す、という共通の行動をとる
・「チュンセはもう働いてゐる」
→チュンセと同じ様に、ジョバンニももう働いている

(→当サイト内のジョバンニとカムパネルラの考察を参考)


 以上のことより、チュンセには賢治とジョバンニと共通する部分があり、ポーセにはとしとカムパネルラと共通する部分がある。チュンセ=賢治、チュンセ=ジョバンニだからと言ってチュンセ=賢治=ジョバンニとは一概には言えないが、それでもやはり、賢治とジョバンニ、としとカムパネルラには共通項が存在すると感じる。やはり、「銀河鉄道の夜」に、「としの死」というのは欠かせない要素である様に考えられる。
 しかし、第四次原稿でブルカニロ博士の台詞が抜かれていることを考えると、はやかわさんの言う「賢治個人の物語から脱皮させたいという願い」に繋がっているとも考えられなくもない。確かに第三次原稿でのブルカニロ博士の台詞は物語の中で最も重要なポイントであり、彼の台詞はカムパネルラを失ったジョバンニに、今後どうするべきかという「道標」にもなっている。それはつまり、としを失った賢治の道標とも言える。ブルカニロ博士の台詞を抜かしたということは、賢治がとしを失った後の自らの道標を物語から外した、ということになる。
 が、「銀河鉄道の夜」の第四次原稿は完全に賢治個人の体験を外した話になっているのだろうか?賢治が第四次原稿を執筆した時、彼は急性肺炎にかかり、死期に近い状態にあった(→当サイト内の宮沢賢治の生涯を参考)。彼は、生命の危機に晒された時期に、この物語の改良を加えたのであろう。恐らく、彼が第三次原稿で書いた理想、つまりブルカニロ博士の言う「ほんとうの幸を探せ」という道標は、現実とは違うということを悟ったのであろう。発病し、死という現実に直面した賢治にとって、彼の描いた理想は不完全な形になってしまった。そのため、第四次原稿ではブルカニロ博士の台詞を抜かし、物語の最後をぼかしたのだと考えられる。つまり、ブルカニロ博士の台詞が欠けても、「銀河鉄道の夜」という物語は、賢治自身に深くリンクしていると言える(→当サイト内の第三次原稿と第四次原稿の違いについての考察を参考)。
 でも、賢治の想いが込められた物語は「銀河鉄道の夜」だけではない。恐らく、賢治の描いた全ての作品は、彼の内面が反映された作品であることに違いないだろう。


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