「軍管区指令部に動員されて」
荒木(旧姓板村)克子  

 昭和20年8月6日午前8時15分
 中国軍管区指令部指揮連絡室。ピカッと光った瞬間まっ暗になった。”B29”の警戒警報を送信している最中である。ピカッ!電気のショートかと思ったとたんドカーン。 机上の電話機はふっとび、もちろん机もとばされた。 立ち込めるホコリで一寸先も見えない。 気がついたとき日頃習った通り指で目と耳をおおっていた。 今の護国神社大鳥居の南側の壕である。 
 比治山女子高校(当時の比治山高等女学校、国信玉三校長)の3年生のうち約90名がここに動員され30名ずつ班を編成し、三交代で昼夜兼行である。主な仕事は中国地方の監視哨、飛行場、高射砲隊などへの警報の連絡事務だった。
  「日本が絶対勝つ」「一億総決起」「進め一億火の玉だ」。 勝利を信じきっていた私達は唯一すじにお国のためと感激し、大事な仕事を任され身がひきしまる思いだった。 勿論出席率は100%だった。 5日夜は私達2班の勤務。 その夜から翌六日朝にかけて、相ついで敵機の襲来(7月下旬から十数日間一度も空襲がなかったのは太平洋上の低気圧のため)があり、一睡もしなかった。 夜勤は1班が二つのグループに分かれ、午前1時を機に交代するシステムになっていた。 交代の直後、敵機の襲来があってやっと眠りについた前班も含め全員部署につけの指令。 その後は警報の解除のいとまもなく、4時すぎまでB29が広島上空に侵入していた。 やっと解除になりつかれた身体に思いきり吸い込んだ明け方の空気は冷ややかで気持ちがよかった。 生気を得て友だちとの会話を楽しんだ一時でもあった。 
 7時すぎ宿舎にかえって朝食をすませる。 しつけにきびしい富樫先生の優しい思いやりのある「君達は欲しくなければ無理するなよ。 腹でもこわしたら大変だからな。 残飯にして捨ててもいいから体を大切にしなさい。」とのお言葉が心に残る。 いつもなら御飯を少しでも残そうものなら、もったいないことをするとよく叱られていたものだから。 食事を終えて再び勤務にかえる途中、出勤の1班3班に出会い無邪気に朝のあいさつをかわした。 それから数分後、あの恐ろしい原爆投下。
 壕内で被爆したため、私達は大した怪我もなく、殆ど全員無事に避難することができた。私が壕の外へ出た時はあたり一面、煙幕をはったみたいで何も見えなかった。 ただ倉田さんが顔一面に血が流れてまっかに見えたので、皆びっくりしたが大したことがなくホッとしたのを憶えている。 その直後大倉さんと2人で消化のためのバケツをとりに壕内に引き返したのだ。 四国軍管区指令部のある善通寺からの通信をいらいらしながら受けたのもその時。 今思えば全市火の海になる位の被害の中でよく電話が通じたものだと不思議に思うがその時は早くすませたいの一心だった。 案の定、外に出てみると級友は一人もいない。 大倉さんと2人だけの行動はこれから始まる。
 下敷きになった兵隊さんの救出。 大した力もない私達にはどうにもならないことだったが傭兵の松井さんと3人で死ぬ思いで一生懸命やった。(でもそのおかげでただ一人ではあるがその方は今も健全と聞く。) 私達が大本営そばの土手にかけ上がった時には、全く目を疑うばかりの光景に出会った。 見渡す限り火の海なのだ。 最初壕の中で連絡にかけ込んできた兵隊さんは「お堀に爆弾が落ちた」と云われただけだったのに。 一体どうなっているのか、これなら私の家も家族も全滅だとぼんやり思った瞬間に、広島城の表・裏門共に焼け落ちたとの知らせ。 ついに脱出出来ずに燃えさかる火の中にとどまらざるを得なかった。
 ついさっきまで広島の誇りとしてそびえていた美しい鯉城の天守閣も、大本営の建物もあとかたもない。 司令官のいらっした本館もかき消す如くで、あたり一面は、がれきの山。
 丁度本館の建物のはるか下の方から”たすけて〜”と助けを求めるか細い女の人の声が聞きとれたが、全く手の施しようがない。 どうにもならず焼死するであろうその人の最後の声に耳を覆ってしまった。 一番ひどかったのは何時頃だったかさっぱり判らなかった。 大本営近くの小さな池の傍らで、何物をものみ込んでしまいそうな火の海に取り囲まれて、ほんとうに身が焦がされてしまいそうであった。 池の水とはいっても底に少しばかりあるだけのきたない水だったがそれを浴びても数秒とはもたずすぐ乾いてしまう。 何度も何度も本能的に水をかぶっていた。 一緒にいた青木参謀は、上半身真っ裸でその背中には指2本大のくさった木のかけらが刺さり込み、そばに横たわっていた中尉さんは頭が割れてしまって脳まで見えていた。 負傷者も数多くいたが、もう恐ろしさなど全然感じなかったように思う。 ただ水を欲しがるその人達に一口の水さえあげられなかったのがお気の毒だった。 どれ位たったか例の”黒い雨”が降った。 痛い位大きな今迄に見たことのない気味悪いほどの大粒の雨であった。 動ける者は近くの待避壕に身をさけた。 おかげで火勢は大分下火になり。九死に一生を得た思いだった。 科学的な理由等全然判らぬ当時としては、ただ神の救いとしか思えなかった。 それに元気づけられて、動ける者はみんなで一日中大本営あたりで傷ついた人達の救出作業に当たった。 1班3班の人達は一体どうなっているだろうか。 丁度あの時刻竹やりを持って朝礼の最中だった筈だが、早く見つけださねばと心はあせった。 先ず兵隊さんの指図で下敷きになった人々を運び出し、運よく消失をまぬがれたお米で御飯を炊き、おむすびを作り兵隊さんの短剣を包丁代りに野菜を切りお汁を作って、出来る限り手分けし配って歩いた。大本営の下敷きから救出した富樫先生、藤本弘子さん、野村とし子さん、とは口をきくことが出来た。 殊に先生は、御自分は今にも死にそうな息の下から「みんなをこんな目に会わせて申し訳ない。許して欲しい。」とくり返し生徒達にわびておられた。
 旧陸軍幼年学校に面した土手近くで浜岡緑さんと須川祐子先生に会った。 ひどい傷だった。 多くの人は誰とも判らぬほどかわり果て、衣服は爆風ではぎ取られその上皮膚もまるでボロぎれのようにぶら下がっていた。 浜岡さんの片手は手首がほんの少しくっついているだけでブラリとたれ下がっていた。 幼年学校へ医療作業のお手伝いに行く私達の後を追ったのか、それにお水が欲しかったのか、浜岡さんはお堀にかかった城東橋の所までたどりつき後は何処をさがしても姿は見えなかった。 多分あやまってお堀の中に。
 その夜は勤務室だった壕の中に寝た様に思う。 一夜郊外などへ避難していた級友達も三々五々帰ってきた。 元気な姿を確かめ合った時には思わず抱きあってうれし泣きした。
 明けて7日は共に元気な5、6名がジリジリ照りつける真夏の太陽を背に級友を探して歩いた。 私達のグループは常盤橋方面。 河原で大本典子さんを見つけた。 全身大やけどですでに冷え切っているため皮膚は堅くなり、担架に移す時はズルーとむけてしまう。 あまりのむごさに言葉もなかった。 八丁堀の福屋百貨店に収容されていた稲住幸恵さんを見舞う。 救護物資として送られて来たミカンのかんづめを持って行ったのだが福屋の建物は外壁のみを残し内部は階段のみ、多くの人達が収容されていたが彼女は2階に寝ていた。
 今の県庁、市民病院のあるあたり(当時西練兵場)を通って行ったのはもう日が暮れてからだったが、広い練兵場ではあちこちに、あお火が燃えていた。 無念の思いで死んでいった陸軍病院(近くに第1、第2分院があり疾病兵は多数練兵場に出て黒こげの状態で死んでいた。)の兵隊さん達の魂の燃焼だろうか、何か訴えているようだと同行の櫟村美代子さんと話したを憶えている。 広島逓信病院に西崎満枝さん。 よく肥えて、明るく愉快な人だったが「お風呂に入りたい」とうわごとを云い続ける。「心臓の丈夫な人で、普通ならもう駄目な症状」、とお医者さんが話してくださった。
 その夜は山中助市先生と友人と3人だったが、その帰途先生は無残にくずれた城をぼんやりと浮かびあがらせている月を見上げながら「あの月は何と云うか」と聞かれる。 何のためらいもなくまた情緒もなく「上弦の月」と答えた。 私達にあれこそ荒城の月だ。 としみじみおっしゃった。 その場の光景をその言葉と共にあざやかに思い浮かべる事ができる。
 造力満子さん、坪井喜代子さん、佐伯俊子さん、水野タケ子さん、奥野奈智子さん、踊場昭子さん、山崎美枝子さん、斉藤偕枝さん、森本允子さん、土屋匡子さん、武田和子さん。 次々と救護所にあてられていた幼年学校の校庭に運ばれて来た。 意識はわりとはっきりしていたみな一様に自分の仕事を気にし、私達に問いかける。 「敵機襲来、警報を出せ」、「勤務の交代をたのむ」、「通信器具を運んでくれ」、「監視哨へ情報を送れ」、などなど。 地獄の様な責め苦にさいなまれながら、心はひたすらお国を思う15才の少女の純真な気高い心。 ある人は「手にしたワイヤーが重い」という。 校長先生がかわってあげるから宿舎にかえってひと休みしなさいといわれると、「ありがとうございます。ではお願いします。」といってそのまま永久の眠りについてしまった。 山崎さんは生きながらにハスの花のうてなにのって、極楽を夢見ながら死んでいった。 校長先生と一緒に泣いた。 踊場さんはお姉さんに「荒城の月」を歌ってもらいながら死んで行った。 全身やけどに一杯たまったうみで、無数にわいたうじ、あまりにむごいその中で水野さんはほほえみながら息を引き取った。 その瞬間の天使のような美しい顔が今も印象深い。
 薬など十分になかったが、みんな一生懸命働いた。 水を欲しがる人達に傷に悪いからと殆ど飲ませてあげられなかったのは今もって心残りである。 校長先生、秦先生、平松先生方の献身的な看護が続き、私達に無言のはげましを与えてくれた。
 翌日は宮川さんと二人で兵隊さんの作業を手伝い幼年学校の校庭の片隅に掘られた穴の中で死体を焼いた。 大きな木材に油が注がれて燃え盛っていた。 どこの誰とも判らぬ人達。 誰の骨なのか。 この人達は家族のもとにちゃんとかえれるのか。 ひそかに案じながら遺骨を拾った。 焼いても焼いても死体はふえる。 夜になってもその火は消えず、お堀端の大木の夜となく昼となく燃え続ける炎も、あたりが暗くなると、くっきり浮き上がってその恐ろしさを一層かりたてた。 
 その頃だったか長崎に広島と同じ型の新型爆弾が落とされるかも知れないという噂を聞いたのは。 全国各地から救援部隊が到着した。 救援物資も送られて来た。 心強かった。 負傷者は似島などの仮救護所に運ばれ治療を受けた。 安否を気づかって次兄が訪ねて来てくれた私は安心して作業に精を出した。 我が家にやっと帰れたのは十日の夕刻と思う。 紙屋町の交差点に立つと、はるか彼方の宇品も己斐も広島駅も一目で見渡せた。 同じ仁保方面に帰る佃さんと一緒に元気づけながら数日前配給になった地下足袋をひきづって歩いた。 その夜の空襲。 黄金山の袂にある小屋に避難し両親と共に一夜を過ごした。 久しぶりにくつろいだ一時だったが、翌朝直ちに指令部にと急いだ。 それからは山中先生の監督のもとに壕内に寝泊りしながら15日の終戦の日迄通信事務に力の及ぶ限り働いた。
 15日正午のあの玉音放送は日本の必勝を信じていた私達にいいようもない衝撃だった。 兵隊さん達は尚更のこと。 将校さん達もみなくやし涙を流していた。 ただ勝つことを信じて死んでいった級友たちは一体どうなるのか。 やり場のないくやしい気持ちにとらわれたことを忘れることは出来ない。
 18日私達動員学徒の解散式があった。 20日に級友数名と再び指令部を訪れた時、不思議にも須川先生の御臨終に立ち会うことになった。 やさしく美しく日本の女性らしい凛とした気がいの感じられた先生であった。 思えば、被爆前夜、はじめて先生の剣舞を見せてもらって皆その素晴らしさに感動させられたのだったが。 最後に児島高徳の詩を父上と共に朗詠されながら息を引き取られた。
 級友65柱の霊よ。 安らかに眠って下さい。 年毎にめぐり来る8月8日、校長先生と生き残った者のうち7・8名は被爆当時の現場に集まり、花束を捧げて冥福を祈っています。
 そして二度とあのような恐ろしい事を繰りかえさぬようにと。

荒木さんは平成8年に亡くなられました。 御冥福をお祈りします。
もどる