須川裕子先生は地下壕で働く生徒の世話をしておられましたが、被爆の数日後亡くなられました。 須川先生のお父さんが自費出版された本の中に、裕子先生のことを書かれた部分があります。 偶然、古本屋でこの本を見つけられた方がメールで知らせて下さいました。


「半生を顧みる」 須川義弘

85日 広島市外へ出張

 85日、近藤学長と私は附属の中学と国民学校の生徒児童の疎開先訪問を兼ねて、農耕地探しに芸備線沿線の西城から東條に出張する事になった。私の家は一人娘の裕子が比治山高等学校に教諭として勤めていたが、広島城内の師団司令部に動員されていた生徒の付添教師の一人として一昼夜交代の勤務についていて、5日夜は出番だった・…。

8月6日原爆の日

 開墾適地を見つけて、午後4時頃山を下りた。町役場へ立ち寄ったところ、今朝広島が爆撃されたと聞いたが詳しい事はわからない。・・・相談の結果、学長は予定通り東城へ行き、・・・私が帰ることになった。(・・・そしてなんとか大学に須川氏は着いた・・・)

 北門から構内に入ると、56人の者が飛んで来た。正光、竹田、三川などの事務の職員で、抱き合わんばかりにして「よく帰ってくれた、この惨状でどうしてよいか途方に暮れていたところだ」と涙を流して喜んでくれた。それはもう夜中の10時を過ぎていた。

8月7日焼死者の処置

(略)

月8 学長帰学

(略)

月8日 家族の消息

 8日の午前だったと思う。比治山高等女学校の校長から、「娘さんは頭に少々怪我をしたが、城内防空司令部で元気で残った動員学徒の世話をしているから安心せよ」との知らせを受けた。裕子は爆心地に近い城内での勤務であり、当日の午前八時は交代の時刻だから、兵舎にいたらその下敷きとなっての焼死か、帰途の練兵場あたりだったら爆風に吹き飛ばされてどうなったかわからない。死んだものとばかり思っていたのに無事でいると聞いて、内心非常に嬉しかった。妻は助け出されたと聞いていたのでどこかに生きているはず、この惨禍の中で一家三人とも助かったとは何という幸運であろう。六日の晩以来、惨状の只中にあって妻子なども死んだものとして問題にもしていなかったが、この知らせに初めて人心地がついた思いであった。しかも周囲のあまりの悲惨さを憚って、その嬉しさはとても口に出せるものではなかった。

 妻は八日の午後三時頃に大学に帰ってきたので、裕子の無事を知らせて喜び合った。

(略)

妻の遭難話 (・・・建物下敷きから助け出され似島に運ばれた。・・・)出張間際に頼んでおいた私の一言を思い出してくれた事務の者に助けられなかったら、妻は建物の下で焼け死んだであろう。お陰で幸運な命拾いをした。

(略)

 妻は八日の晩から白須さん宅に厄介になり、九日に広島城内に裕子を訪ねたが、裕子はまだ残った生徒の世話に必死だったので独りで皆実町に帰った。十日、裕子発熱の知らせを受けてからは防空司令部で裕子の枕頭に付き切りで看病し、二十日死亡の日まで十日あまり放射能の濃い爆心地近くで過ごしたのに、原爆症の兆候もなく今だにどうやら生き長らえているのは、これまた不思議な幸運と言うべきか.

89 教官を語る

(略)

8月10日 裕子の発病

 六日の被爆以来、城内の防空司令部で死傷した生徒の世話を続けていた裕子が十日になってやっと交代の先生が来たので、引継ぎを終わって始めて自分の怪我の手当てを受けようと軍医部へ行き、そこで突然倒れ発熱して司令部のバラックに寝かされているという知らせが、十日昼前に比治山高女の校長からあった。すぐに妻に看病に行かせ、私も仕事の都合をつけて病床を訪ねて闘病を励ました。軍医部でもまだ原爆症というものがわかっていなかったのか、チブスだの結核だなどと、いろいろ検査をしているようであった。司令部からの帰途、お堀に吹き飛ばされた蓮が青い新芽を出し始めているのを見て、以前に敵機のまいたビラに七十五年間草木も生えないとあったのは単なるおどかしであったのかと思ったりした。原爆や放射能の恐ろしさには全く気付かなかった。

(略)

8月20日 裕子の死

 十九日には裕子が危篤だとの知らせを受けたので、最後を見届けてやろうと広島城内の病人の枕頭で夜を明かした。二十日午後三時、裕子は最後まで意識を保ちつつ息を引き取った。享年二十二歳。軍隊は武装解除されたが司令部には後始末のため兵隊がいて、その兵隊さんが天守閣跡に薪を積んで火葬の用意をしてくれたので、冥福を祈りながら火をつけた。翌朝、骨拾いに行ったが、完全に灰になっていた。

 この頃になって、広島でもようやく原爆症が問題視され、この症状で斃れた者の骨がほしいと市役所から申出があったので、頭骨の一部を割愛したが、お役に立ったかどうか。

 広島城内の師団防空司令部防衛通信部隊に出動した学徒の裕子の活躍ぶりは、終戦直後に書いた「裕子の霊に捧ぐ」に、詳述したから、ここでは省略する。


裕子の霊に捧ぐ(抄) (昭和217月記)「半生を顧みる」の末尾に再録

 裕子が東京で生まれました当時は、母親の乳も無く体も非常に虚弱で、之で果して育つだろうかと気遣われていたのでしたが、其の後心身ともにすくすくと育ちまして、之という病気もせず、女学校の頃は運動選手となり、また学芸会等では剣舞もやっていたようで卒業後は体育学校に行こうか等と申しておった位でした。昭和199月東京女子専門学校の裁縫家事課を卒業しましてからは、・・・母校の助手に残ることになったのでした。・・・

 昭和19年の暮私が広島に転勤になりました時、裕子は今少し染色の方を勉強したいから東京に残りたいと申しておりましたが、早く結婚させたいとの親心もありましたので、学校から残るよう奨められましたのも断って広島へ一緒に参ったのでした。・・・国民の多くは私利にのみ走って、挙国一致の実の挙がらないのを苦慮する政府の姿がありありと窺われましたので、真面目一方の裕子はこの世相を非常に慨嘆・・・。昭和2041日から比治山高等女学校に勤めることになりました。

(・・・8日の午前、比治山高等女学校の校長から家族の情報得る・・・)妻もどこかで生きている筈、裕子も元気だとすれば一家三人皆助かったのだ、こんな幸せは無いと心の中では喜びましたが、周囲の人々が皆被害者ばかりなので、口に出す事も憚る状態でした。

9日妻が師団に裕子を訪ねる)着いた時、裕子は左の手を首から吊るした姿で、(状況報告)約80名あまりの学徒の措置を詳細説明、・・・今、白須さんのお世話になっているので帰れるならば一緒にと云いますと「まだ交代の先生も来ないし、怪我をした生徒も沢山残っていて、私の傷の手当ても受ける暇も無い状態なので帰れない。」という。・・・また来る約束をして早々分かれ一人帰ったとのことでした。

10日発熱の報せで見舞う)

 自転車で病床を訪ねたのですが、急造のバラックの中に生徒二人と枕を並べ軍の毛布にくるまって寝ていました。災害後初めて会った裕子は、私を見てほほ笑んで居ましたが、少々やつれている様でした。怪我は左の手甲と左肩とで右足首を捻挫していましたが、永らく放っておいたためか大分大きく腫れていました。熱は40度くらい、鼻血が止まらないので困ると言っていましたが、案外元気で当時の模様を話してくれました。

 丁度あの時交代の先生も生徒も揃ったので、私は連れていた40名の生徒と一緒に、控室で帰り支度をしていましたが、突然ピカッと光ったと思った次の瞬間建物がカラガラと崩れ・・・一所懸命もがいた結果、怪我はしたがやっとのことで抜け出る事ができました。幸いにも付近に居た兵隊さんの助力を得て、下敷きの生徒全部を救い出す事ができました。

 交代の富樫先生とその生徒約40名は、営庭で朝会をやっていた時だったので、先生も生徒も大火傷を受けた上強い爆風に飛ばされたので、その惨状は私以上でした。・・・四周総て火の海となったので、止むなく濠に架けられた橋の上に引き返して一晩を過ごしましたが、・・・・言葉では言い表せません。翌日は城内の司令部跡に帰りましたが、富樫先生も遂に亡くなられた・・・。私も食物はのどを通らず只水だけ飲んでいたし、着ていた服はちぎれてしまったので、死んだ生徒のものを借り着して働いたのです。

14日見舞う)

 相変わらず熱も下がらず鼻血も止まらない。軍医の方も全く診断がつかず、・・・効果は全く見えなかったのでした。

15日)

 高熱が続き、鼻血がのどにつまって多少苦しむようでした。

18日頃)

 もうだめではと不安に・・・

19日危篤の通知。 見舞う)

 相変わらず意識は明瞭ですが、熱は相変わらず40度前後。(のど)粘膜のちぎれは次第に大きくなり、髪の毛も抜け始めました。・・・夕刻岡山医大の救護班・・特別の処置もできず葡萄糖の注射をしたくらいでした。・・(頼んであったマスカット)それを与えますと喜んで食べていました。

20日)

 聴覚がかなり悪くなって・・・。午後の2時半頃病人は突然頭を起して、つつましく天皇陛下万歳を三唱しました。枕頭の生徒も妻も私もみな合唱しました。其の後で「お父さんお母さん有難う左様なら」と最後の訣別をしてくれましたのには親として涙無しでは居られませんでした。(この後詩吟をし万歳をした。終えてすぐ息をひきとった)

 裕子は斯して数え年22歳。人生は之からだという花の蕾を一期として勇ましく死んで行きましたが、短い一生の中21歳の9月までは学生生活でしたので、晋の社会生活は僅かに11か月、1年にも足りない人生ですが・・・。私は裕子が原子爆弾の犠牲になったと書きましたが、それは私の客観的表現でありまして、・・・これを悲しむのは・・・親の我侭だと・・・。

 裕子よ善く死んで呉れた安らかに眠れと只管彼の冥福を祈るのみであります。


 情報をお寄せ下さった方によると、須川義弘さんは昭和55年に亡くなられたようです。原爆関係の本を20年位集めておられ、この本は初めて発見されたそうです。平和文化センターの目録を見てもなく、自費出版ではないかということです。埋もれるには惜しい内容の本だと言っておられました。
 なお、この文章を掲載する許可は情報をお寄せ下さった方に須川さんの縁故者からとっていただきました。