はい、質問! | 平泉寺はどうやって力をたくわえていったのかなあ? |
平泉寺は応徳元年(1084)、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の末寺になりました。延暦寺は、当時日本で最も大きな力を持っていたお寺で、全国に影響力を持っていました。平泉寺はその仲間になることで、越前で力をのばしていきました。 | |
はい、質問! | 平泉寺は平安時代にはどれぐらい有名だったのかなあ? |
平安時代の終わり頃には、都の貴族たちが、平泉寺のことをうわさしているようですね。越前国白山社の平清水(ひらしみず)の周りでお坊さんたちが集まってきて修行しているようだと言っています。でも、いいことばかりじゃありません。平泉寺の光明が住職を殺したので、罰を受けて阿波(徳島)に送られたとか、平泉寺が大野の牛ヶ原荘(うしがはらのしょう)で乱暴をはたらいた記録が残っています。 | |
はい、質問! | 源平争乱の時代の平泉寺はどうだったと思う? |
木曽義仲(きそよしなか)が平氏に対抗して兵を挙げると、信濃から北陸に回って、京都を目指しました。平泉寺の斎明(さいみょう)は木曽義仲に味方して、平氏と戦いました。ところが、今庄の燧城(ひうちがじょう)で木曽義仲を裏切り、逆に平氏に味方しました。しかし戦いには負けて、怒った木曽義仲に斎明は殺されてしまいます。 源義経(みなもとのよしつね)は兄の源頼朝(みなもとのよりとも)と仲違いして、京都から奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)に逃げようとしますが、この途中で平泉寺に立ち寄りました。平泉寺の観音堂で一夜を明かしたといわれています。 |
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観音堂の聖観音 |
観音堂 |
はい、質問! | 東尋坊殺人事件とはこわいなあ。どんな事件だったの? |
福井県三国町に「東尋坊(とうじんぼう)」という断崖絶壁の観光地があるのを知っていますか。毎年100万人もの観光客が訪れる福井県の名所です。 この「東尋坊」という名前は、平泉寺にいたお坊さんの名前からとったと言われています。東尋坊というお坊さんは、大変力持ちで乱暴者でした。 寿永元年(1182)4月5日に、平泉寺のお坊さんたちが、海辺に遊びに来て酒盛りをしました。 そしてみんなから目くばせをうけた真柄覚念(まがらかくねん)が、酒に酔った東尋坊を岸壁から突き落としました。すると、晴れ渡っていた空がにわかに曇りだし、稲妻が光り、たくさんの人が亡くなりました。これ以後、毎年4月5日の祭礼の時には、東尋坊の怨霊が現れ、海が荒れるようになりました。この突き落とされた岸壁をいつからか「東尋坊」と呼ぶようになったのです。 この話から平泉寺と三国が九頭竜川を通じて密接な関係にあることが分かります。三国は昔から港として、盛んに交易が行われた場所でした。平泉寺は九頭竜川を利用して、大海原とも密接に結びついていたのでしょう。 |