鎌倉時代の平泉寺

 鎌倉時代は平泉寺がどんどん領地の支配を広げていった時代です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝からは福井平野の東にある藤島荘(ふじしまのしょう)をもらいます。このほかにも越前国中の荘園から税金を取ろうとします。この税を取るときには白山の神に、初穂米(はつほまい)としてその年とれた初めての米をお供えするよう要求します。納めないと白山の神の罰を受けるとかいって脅したのかもしれませんね。

はい、質問! 長吏の争奪戦は誰がしたの?ところで「長吏」って何?
 「長吏(ちょうり)」というのは、平泉寺の最高指導者のことです。最高指導者に誰がなるかで争いも起こりました。
 でもおもしろいことに、争いあったのは京都の青蓮院(しょうれんいん)と梨本坊(なしもとぼう)という有力な二人のお坊さんでした。京都の権力を握っていたお坊さんたちにとって、平泉寺と親しいことが魅力的でした。結局この争いは後白河法皇が出てきて青蓮院の実暹(じっせん)を長吏に任命しました。

はい、質問! また牛ヶ原荘を襲撃したんだね。
 鎌倉幕府が滅びようとするとき、大野の牛ヶ原荘(うしがはらのしょう)を支配していた地頭(じとう)の淡河時治(あいかわときはる)を攻め滅ぼしました。そして、南朝方の新田義貞(にったよしさだ)に味方して戦っていました。ところが、義貞が戦死すると、南朝を裏切り、北朝に味方して戦いました。平安時代から、平泉寺は裏切りを続けているように見えます。戦乱の世の中を生き残っていくために、平泉寺はこうして力を蓄えていきました。

現在の牛ヶ原荘