安土桃山時代・江戸時代の平泉寺

はい、質問! 一向一揆に焼かれた後、焼け野原のままだったの?
 平泉寺が一向一揆に焼き払われた時、住んでいた人々はちりぢりバラバラになりました。このときの平泉寺のトップ長吏であった顕海(けんかい)は、美濃国境(油坂峠付近)に逃げていました。
 10年間隠れた後、平泉寺に戻ってきて、寺をもう一度造り直すことになりました。

 復興した平泉寺には福井藩や勝山藩から寄進を受けて、400石を領していました。復興した平泉寺には6つの坊と2つの寺がありました。でも、江戸時代は、室町時代の最も栄えたころまでは力を盛り返すことができませんでした。
 平泉寺は、白山禅定道(はくさんぜんじょうどう)という白山頂上へ登る道と白山頂上10里四方(40q四方)を支配しました。この白山の支配権は、加賀藩などとたびたび争いました。