平泉寺の歴史の説明はこれで終わりだよ。
発掘探検がまだだったらそっちも見てね。
じゃあね。バイバイ!
明治〜現代の平泉寺

はい、質問! 明治維新になって平泉寺はどうなったんですか?
 江戸時代より昔は、神と仏は一緒のものという考えがありました。しかし、明治のはじめに、神仏分離(しんぶつぶんり)ということが言われ、神と仏を分けようとします。
 平泉寺も、仏教色を取り除いて神社として新たに出発することになります。そして、このときに仏像や仏教のための道具、堂や塔を手放してしまいました。

はい、質問! 平泉寺はいつから調査してきたの?
 大正時代に上田三平(うえださんぺい)さんが初めて平泉寺を調査しました。上田さんは、福井県中の遺跡を調査した人です。平泉寺白山神社の境内にかつてあったといわれる「三十三間拝殿」や「三宮拝殿」の跡を測量しました。ほかにも、平泉寺集落近くの山の中などに遺跡が残っていると言っていました。そして、「平泉寺の遺跡が大変大きいものであり、県内でも他にないぐらいだ。ところが、巨石が取り除かれており、遺跡が壊れつつある」と言っていました。
 その後、平泉寺共同墓地で、昭和50年、勝山市教育委員会と朝倉氏遺跡調査研究所の水藤真(すいとうまこと)さんが、五輪塔(ごりんとう)や石仏を調査しました。その結果、中世の石造物が560個あることが分かりました。

三十三間拝殿

平泉寺墓地

はい、質問! 最近は遺跡の発掘調査をしているということを聞くんだけど?
 平成元年から発掘調査が始まりました。その結果、平泉寺の最も栄えた頃の境内の大きさは、今の平泉寺の村を含む東西1.2q、南北1qの範囲だと言うことが分かりました。
 かつての平泉寺の境内は、今の平泉寺白山神社だけでないことが分かったので、国史跡(重要文化財)を200ヘクタールに拡大しました。平泉寺のような大規模なお寺の跡は、日本全国を見てもほとんどありません。また、石畳道や石垣を作る技術もかなり高いレベルにありました。このような貴重な史跡を子孫に伝えていくために、史跡を発掘調査しながら保存し、整備していく計画です。

石畳道石垣の発掘風景

石畳道石垣の整備後