前半 / 後半

 神聖ローマ皇帝の孫であるカルロス1世の即位により、スペインがヨーロッパの一大勢力にのしあがるとともに、植民地を広げていった。植民地帝国の建設とともにキリスト教が南北アメリカ大陸に広まり、アメリカ大陸からは豊富な金銀がもたらされた。このころになると、アメリカ大陸におけるスペインの支配が確立し、莫大(ばくだい)な金銀が流入、スペインの黄金時代がはじまった。1580年、カルロス1世の息子フェリペ2世はポルトガル王位を継承し、アジア、アフリカ、ブラジルのポルトガル領をも支配下におさめ、世界最大の帝国をきずきあげた。

 しかし、海外の植民地の管理の困難やイギリスとの対立、伝染病の流行などでスペイン経済はしだいに衰退していった。

 フェリペ4世の時代は、三十年戦争に介入し、フランスと交戦した。このとき海外遠征のために徴税や徴兵の負担を重くしたため、1640年にポルトガルで反乱がおきた。その後フランスブルボン朝のルイ14世の孫アンジュー公が、フェリペ5世としてスペイン王に即位した。しかし、ブルボン家に脅威を感じるオーストリアのハプスブルク家はスペイン王位の継承権を主張し、イギリス、オランダ、プロイセンと同盟して01年、フランスとスペインに宣戦布告した。スペイン継承戦争の始まりである。

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 スペインはブルボン朝のもと、国内の諸制度の改革がすすめられた。しかし、制海権をめぐってイギリスとの対立を深め、ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争、七年戦争(1756〜63)をフランスと同盟をむすんでイギリスと交戦した。これらの戦争の結果、イタリアの領土の一部をとりもどし、北アメリカのフロリダ、ルイジアナを獲得した。

 1808年、ここでナポレオン1世が登場する。彼はスペインを直接支配下におくため、自分の兄ジョゼフをホセ1世として王位につけた。しかしジョゼフを国王としてみとめない民衆は各地で反乱をおこし、イギリス軍がこれに味方した。こうした状況の中、諸都市で評議会が結成される。1812年、少数の評議会代表が南部の町カディスにあつまって国民議会が開かれ、議院内閣制の導入などをもりこんだ、進歩的なカディス憲法が採択された。

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 1833年に生後間もない娘のイサベル2世が母を摂政として即位すると、進歩派と穏健派の対立がつづき、しばしば軍事蜂起による政権交代がおきた。1868年9月、進歩派が海軍とむすんで軍事蜂起し、イサベル2世はフランスへ亡命を余儀なくされた。「9月革命」とよばれるこの事件につづく6年間は、スペインにおける民主主義への道を開く時代となる。

 9月革命体制のもとでは、民主的な1869年憲法が制定され、71年にはイタリアの王子アマデオを国王にむかえた。しかし、強力な後見人のプリム(首相)将軍が暗殺され、急進的な自由主義の拡大にもなやまされ、アマデオは73年には退位した。同年、第1共和政が成立したが、共和派内部の対立や地方の反乱がおこり、政情は安定しなかった。74年、軍事蜂起により共和政は打倒され、イサベルの息子アルフォンソ12世を新国王としてブルボン朝が復活する。

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 復古王政下で保守党と自由党の二大政党制の導入による立憲君主制の確立がはかられた。1936年7月、人民戦線政府打倒をめざす軍の反乱がスペイン各地でおこった。クーデターは失敗に終わるが、これを契機にスペインは国全体を二分する内乱へと突入していった。
 
  フランコを指導者とする反乱側は武力の優勢を背景に強い団結力をみせ、共和国政府側は、社会主義者、カタルニャやバスクの民族主義者など、雑多な勢力のためまとまりを欠いていた。内乱は反乱軍の勝利におわった。

  フランコは、「国民運動」とよばれる統一党を唯一の合法政党とするとともに、軍部に対する統率を徹底し、教会とも緊密な関係をむすんで、みずからの権力基盤をかためた。1946年に国連がスペイン排斥決議を採択すると多くの国が外交関係をたち、スペインは国際的孤立を強いられた。フランコは、国民憲章、国民投票法などの基本法を制定し、民主制の装いをみせた。47年には国家首長継承法が制定され、スペインを王国と規定するとともに、フランコを終身国家元首に任じている。フランコ体制下ですすめられた自給自足型の経済政策は、1950年代になると行き詰まりをみせた。59年、政府は経済安定計画を策定し、経済の開放化をおしすすめた。

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Q3.「フランコ」と「フラメンコ」、名前がよく似ていてよく間違えるのですが、何か関係があるのですか?
A3. 二つの語源に共通点はないが、フランコ直属の秘密警察だったGUARDIA CIVILは、フラメンコのジプシー達には過酷に当たっていたため、そのリーダーであるフランコに対しての恨みは深いものと思われる。

  1961年以降、スペインは未曽有(みぞう)の高度経済成長期にはいった。工業の発展や観光業の急成長にくわえ、外国の資本投下や国外の出稼ぎ労働者からの本国送金が経済発展の支えとなった。農村から都市へのはげしい人口流出、高校および大学教育の拡大、現代的なライフスタイルの定着など、急激な社会変化も生まれた。

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 反体制派に対する弾圧はつづいていたが、民主化の動きも少しずつあらわれはじめ、1960年代後半には、出版の自由拡大や議会の代表制と権能の拡大がはかられた。56年にモロッコからの撤退を完了していたが、60年代末から70年代半ばには、赤道ギニアの独立を承認し、西サハラの領有権も放棄する。そして反体制運動が渦まく中、75年11月、フランコは死去した。

 フランコの死後、ただちにフアン・カルロス1世が即位する。国王により新首相に指名されたスアレスは1976年、政治改革法案を国民投票にかけ、成立させた。77年には共産党が合法化され、約40年ぶりの民主選挙がおこなわれた。選挙の結果スアレスの民主中道連合が勝利をおさめ、政府がすすめてきた改革路線への支持が確認された。