〜日本の衣服の歴史〜


●有史以前に養蚕が伝来

中国からまず養蚕が入って来ました。日本の神代神話にも養蚕のことについて述べられていますが、有史以前に伝来したことは間違いないでしょう。推古天皇の12年(604)に聖徳太子が出した十七条憲法にも“桑せざれば何をか服せん”とありますが、上代でもすでに重要な産業であったことがわかります。絹糸・絹織物産業はその後も次第に発展して本場の中国をしのぎ、明治以降も生糸・羽二重は日本の輸出品の首位を占めていました。


日本と大陸との交通が開けたころ、衣服関係の工人の来朝・帰化が相次ぎました。


●織物

5世紀前半ころには、織縫術がかなり進みました。允恭天皇は機織部(はたおりべ・機織(はたおり)を職とした)の子孫である服部連(はとりのむらじ)の麻羅宿弥(まらのすくね)を織物司に任命して、全国の総支配に当たらせました。今でいうなら、織物庁長官(!)というところです。
5世紀後半にも更に大陸から工人が来朝しました。ちなみにこのころ、秦の遺民の子孫の秦(ハタと読みます)氏はすぐれた織物を作ることに成功し、天皇に献上したため、“太秦(うずまさ)”の姓を賜(たまわ)りました。太秦氏は山城の国(今の京都市内)に賀茂稲荷神社を起こして一族の守護神としたほか、日本人にアメ、酒の製法を教えたともいわれます。


織物とともに染色の技術が、そしてその後、薄物の羅と紗、綾、太い糸で織った粗製の絹布のあしぎぬ、錦などが伝わりました。


●冠位の制定

こうして製糸・織縫・染色の技術・内容共に向上した603年、聖徳太子は“冠位十二階”を制定し、中国にならって冠を定め、位階に従って着用させました。上から徳は紫、仁は青、礼は赤、信は黄、義は白、智は黒(いずれも大小あり、合計12)がそれぞれですが、まだ礼服についての定めはありませんでした。この十二階の冠は683年に廃止され、代りに別の二種の冠…{漆紗(しつしゃ)冠(薄地の布を漆で固めた冠)、圭(けい)冠(のちの烏帽子(えぼし)}の二つを定め、686年には臣下と区別した皇族の冠と衣服とを新たに定めました。

●紫色の尊重

紫色を尊んだのは中国風です。中国では古来、黄色(大地の色)を天子の色としたのに次いで、紫を尊びました。時代によっては紫を天子の色としたこともあります。なお、上の冠位十二階で黒を最低としたのは、黒は人民の色(人民を黔首(けんしゅ)=黒い頭、あるいは黎民=黒髪の民とも呼んだ)であるためで、冠尊民卑のむかしの思想のあらわれです。

●服装が正式に定められる

奈良時代718年に中国にならって衣服令が交付され、皇族・官史・庶民の服装が正式に決まりました。
しかし当時の衣服はほとんど唐そのまま。庶民服は2色で、一般は黄色(中国では黄は皇帝の色でした)、奴隷は黒色と定められていました。襟の合わせは、古くは一定していませんでしたが、718年に至って右前に統一されました。

平安中期になると、男は衣冠束帯、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、水干、直垂(ひたたれ)が生まれ、衣冠束帯は礼服、直衣は上級者の私服、水干は庶民の通常服、狩衣は一種の礼服となりました。女子の方も男子につれて変化し、中期以降は直衣を着るようになり、さらに固有の十二単も生まれました。


公卿夏束帯

平安初期
文官朝服

平安初期
女官朝服

公卿武官
夏束帯
●唐衣

平安期以降公家の女子の正装とされた晴れの装束で、いわゆる十二単の最上層の裳(も)とともに用いられた短い衣です。十二単は“裳唐衣装束”とも呼ばれるように、日本固有ながら唐衣の影響は色濃く残っていました。

十二単

平安末期以降は中国の影響は全くといってよいほど見られなくなりました。したがって、奈良末期までは中国模倣時代、平安中期までは中国式保存時代、それ以降は日本固有服制定時代といえます。



〜中国から伝わったもの〜


●足袋の文数

しかし中国の影響は妙なところに残りました。それは足袋の文数の単位です。江戸期に鋳造された寛永通宝(寛永13年から万延元年の間=1636-1860の間通用した)の直径の八分(約2.4センチ)を一文と計算したのですが、この銅貨の形ははるかむかしの奈良朝初期の和同開珎をそのまま踏襲しています。いわば、唐銭の直径が日本の足袋の文数の基準となったというわけです。

●かざみ

漢字では“汗衫”と書き、“かざみ”は中国語の“かんさ”の転です。奈良期に中国から伝来し、もとは一般男女の夏の衣でしたが、後に装束の下に重ね着し、平安中期からは童女の表衣の名称となりました。“衫”とは本来袖の短い単衣(ひとえ)のことで、後世の汗取りや下がさねのようなものです。後には下着と同義語に使われました。なお、現代中国語でも“汗衫(ハンシャー)”は下着、シャツ、汗取りの意味に使われています。


かざみ
●どんす・しゅす・ちりめん

緞子(どんす)、繻子(しゅす)と、いかにも中国中国した名の示す通り、いずれも天正年間(16世紀後半)に中国から製法が伝わってきました。ちりめんは古くから日本にも存在したという説もありますが、同じく天正年間に当時の日本における機業の中心地、泉州(大阪府)の織物師が、明(みん)人から技術を学んだというのが正しいようです。これがいわゆる“堺ちりめん”で、その技術が京都へ伝わって“西陣織”となりました。

ちりめん素材のくまの人形
●ぬめ

絖と書きます。絹織物の一種で繻子組織の織物ですが、これまた天正年間に明から境に伝わり、直ちに京の西陣へ持ち込まれて、これも西陣織に取り入れられました。
●段通

“だんつう”は?子(タンズ)の当て字で、厚い敷物用の織物ですが、日本へは“毛氈(もうせん)”とともに天保年間(1830−43)に中国から伝来し、堺や佐賀で盛んに製造されました。
●はっぴ

職人などが着る“はっぴ”も中国伝来です。もとは“半臂(はんぴ)”でしたが、のちに法被の字をあて音便で“ハッピ”となりました。半臂は隋のころ(6世紀末)から中国で使用され出し、日本に入ってからはまず貴族が着用し、次いで武家へ、さらに能楽師に及びました。もとは袖なしの胴着のようなものだったらしいですが、この半臂がどうして職人の法被になったかはいまのところ不明です。
なお、法被は禅宗の“法被”がそのまま入ってきたという説もあります。この法被とは元来、禅家で椅子の覆いに使用した布のこと。これが転じて仏前の垂れ幕もこう呼んだといわれますが、それとハッピとの関係はよくわかりません。

七宝つなぎ花文様
絞り染半臂
●チャンチャンコ

江戸期、清国人の服装をし、鉦(かね)をチャンチャン鳴らして歩いていたアメ売りを真似して作った袖なし羽織をいいます。
●ふとん

漢字で書けば“蒲団”か“布団”。これを“ふとん”と読むのは中国音の“プートワン”がそのまま日本でも使用されたからです。現在の中国語では“蒲蓋(プーカイ)”といいます。文字通り本来は蒲(がま)の穂で編んだ坐禅などに用いる中国の円坐ですが、のちに蒲の穂を布で包むようになり、室町以降日本でも綿がとれるようになってから、中に綿を入れ、今日のふとんになりました。これが一般化した19世紀初め以前は、庶民はゴロ寝していたのです。しかし、上流階級ではかなり早くからふとんが使用されていたようです。

●のれん

これも中国語の“ノワンリエン”がそのまま入って来たもの。もとは禅寺の用具で、すだれのすき間を隠すための目かくし幕でした。12世紀末にできた『年中行事絵巻』によれば、禅宗が盛んとなった鎌倉初期(12世紀末)に渡来したもののようです。『禅林象器箋』には“綿布で、すだれの表面を覆って風と冷気とを防ぐ、故に暖簾と称す”とあります。
戦国以前からだんだん商家の屋号、家紋を入れた紺や麻の暖簾となり、江戸時代には商家の代名詞のようになりました。

●手拭

古くは“手巾”または“巾”とも書き、“たのごひ”とも呼びました。奈良朝以前に中国から伝来したようです。当時、すでに浴室があったため手拭が使用されていたわけですが、平安期には大嘗会(だいじょうえ)の供物に、剃髪を受けるために、または布施のため等に盛んに用いられました。江戸期に入ると、年玉、時候見舞、餞別、儀礼、火事見舞い等に、広く使われるようになりました。