住居

住の面では気候や風土の違いから、中国の影響はあまり受けていません。ただ、仏教は中国伝来であり、それに伴う建築様式は入ってきています。



瓦はもと“カハラア”というボン語で、寺院建築の必要上採り入れられました。日本における瓦の製造は、593年に聖徳太子が大和(今の奈良県)の小泉村で焼かせたが始まりといわれます。当時、中国を真似て家の中に敷き瓦(磚(せん))を敷き、その上に胡床を置きましたが、日本古来の風習は男はあぐら、女は片膝立て(朝鮮に似ている)でした。なお、古代の中国では竹を割って屋根をふき、これを“瓦(が)”と呼んでいましたが、インドから土を焼いて作る瓦の製法が伝わり、それが朝鮮、日本にも伝来しました。

●柱

日本では、古くは柱を地中に掘り立てました。いわゆる“天地根元造り”です。これが大陸建築の伝来につれて、柱を次第に礎石の上に立てるようになりました。
柱には通常、円柱と角柱がありますが、それぞれ社寺では主に円柱を、一般住居では主に角柱を用いています。

●天井

日本の原始時代には天井を張る風習はなく、屋根裏をそのまま見せていたようですが、仏教伝来とともに中国風の建築様式が伝わって、仏寺で屋根の下に天井を水平に張るようになりました。その最古の例は法隆寺です。

●建物の均等配置

建物を左右に均等に配置するのも仏教方式の名残で、皇居の大極殿、宇治の平等院に見られる平安貴族の家の寝殿造りにその名残があります。
●寝殿造り

寝殿造りは、造り方が日本と同様に唐文化の影響下にあった渤海の禁苑の造り方に似ているところから、その源は唐の宮殿建築にあったともいえます。
学者によっては渤海の禁苑と日本の寝殿造りの共通点を次のように挙げています。

一、禁苑の周囲にある石塁のうち、西辺の北部には門があったらしく、これは寝殿造りの四脚門に相当する。
二、禁苑の主要な宮殿は、全区域の北辺中央に位置して東西に廊下を出し、その端にそれぞれ小さな建物があったことが知られる。これは寝殿造りの寝殿と対屋に当たる。
三、両者とも南庭に池が穿(うが)たれ、池中には築山が配されている。

寝殿造り
●城の天守の鯱
日本のお城の天守閣の頂には「鯱」があげられていますが、これは中国から伝来した「鴟尾(しび)」の変形したものです。鴟とはトンビ、ミミズク、ミソサザイなどを意味しますが、鴟尾は天上の魚尾星をかたどったもので、火災を防ぐ意味から唐以降に宮殿、寺院、城桜等の頂に飾られました。それが日本に伝来し、同様の用途に使われて城建築にも採用されたものです。

←(唐招提寺の西側の鴟尾)
●盆石

自然の石と砂とで黒塗りの盆の上に風景を作り出す手芸で、古く推古期(593-628)に百済から仏教とともに入ってきました。その時もたらされた二重地香炉の蓋の上に山の形をした石が置いてあり、それがきわめて芸術的だったため鑑賞されるようになり、盆石へと発展しました。特に茶道の興隆によって一層の飛躍をし、室町時代、足利将軍義満・義政の趣味生活がその発展に拍車をかけました。盆石は小乾坤を身近に作り出そうとするもので、作庭と同じ意識であり、山、水、樹木と山水の諸要素を小盆に盛り込むことにより、自然の人工的再現を試みたのは、山水画に通じる立体的自然表現といえます。
●廟建築

茨城県指定文化財 阿弥陀堂
実在した人物(故人)を祠(まつ)る社殿建築は、孔子廟にならったものです。日本では神社と仏寺の中間的な性格を持っていますが、意味合いからすれば、むしろ仏寺的な方が多いです。たとえば日光東照宮と大猷院の場合、前者は神社、後者は仏寺に属していて、建築的にも多少の差があり、現在の法規上でも区別されています。しかし、根本的には両者に殆ど差異はなく、いずれも廟建築と呼ばれるべきものです。しかも、その建築様式は鎌倉期の禅宗迦藍における開山の廟として造営された開山堂に発していて、祠堂の前に礼(らい)堂を置き、その間を相の間(あいのま)でつないでいます。秀吉没後、京都に作られた豊国廟の華麗な廟建築は、ついで京都の北野神社や、仙台の大崎八幡社殿の権現造りを生み、日光廟に至って廟建築が完成したものです。
●石燈籠

現存最古のものは、大和当麻寺金堂前の一基だといわれますが、これは白鳳時代(7世紀半ばごろ)の建造と推定されています。古代中国においては、最初は街路用に設けられていましたが、日本に伝来した時には、すでに献燈として宗教的な意味を帯びるに至っていたようです。後には宗教的意味よりも、屋外照明用あるいは庭園鑑賞用に主力が置かれるようになりました。

弁財天入口(井の頭)
●築山・作庭

京都 修学院離宮 池泉回遊式庭園
仏教伝来に伴って渡来しました。林泉式庭園に築かれる小山で、必ず池を伴います。『日本書紀』の記述から、推古天皇のころ(593-628)にすでに築山が設けられていたことがわかります。

蘇我馬子の住居は飛鳥川のほとりにあって、庭の中に池が掘られ、その中に小さな島が築いてありました。そこで人々は彼を“島の大臣”とか“島宮”とか呼んだといいます。これは彼が積極的に中国文化に学んだ証拠で、池を掘り島を築くのもその一つです。池は東海、島は蓬莢山です。これは従来の日本の庭(神を呼びおろすための単なるスペース、竪庭(かたにわ)、斎庭(ゆにわ))とは違ったものです。


蓬莢山を庭に造形するのは中国の古い伝統で、漢の都の長安に立てられた建章宮には、北に太液(えき)池があって池中には蓬莢山はじめ三山が造られました。馬子の庭は、この伝統を踏むものといえます。また、蓬莢山のイメージは仏教の須弥山と重なります。
鎌倉初期(12世紀末)に書かれた書物にも、作庭における道教や仏教の影響を受けた配置がくわしく述べられています。主に陰陽五行思想に基づく石と水との配置のあり方、植え込む樹木における四神相応に叶う条件などです。
室町期に入ると禅宗や茶道の影響が目立ってきますが、中国の風景にならうことも依然として続いています。
江戸時代に入ると、幕府の奨励によって盛んとなった儒学の影響が顕著となります。たとえば庭の名に儒教における君臣の関係を明示する語を用い、庭中の小亭に儒教徳目をあらわす名をつけたりしました。

今日、名園として遺っている旧大名の庭園はすべてこの類のもので、かつて自然の中に新しい人間関係を作ろうとした山水庭園とは違い、人間世界の中軸に自然を見出そうとした態度の表明といえます。
●表札

門や玄関にかける“表札”も中国から来たもの。元来は“屋号”をあらわしたのですが、日本へ入ってきて、江戸時代の大名屋敷や旗本屋敷町に同じような門、塀、屋敷が立ち並んでいて識別しにくいため、姓だけを門口に掲げたのが表札の始まりです。一般化したのは明治四年の郵便法制定以来のことです。

●玄関

門から入ると“玄関”がありますが、これも仏教から来ました。“玄”とは本来、黒いという意味。“幽玄”とか“玄妙”とは、黒くてハッキリわからないが底知れぬ深遠な何かがあるという意味で、“玄関”とはそういう境地に入る関門を称しました。禅宗で、玄妙への門という意味で禅寺の客殿へ入る門に“玄関”と名づけ、これが一般化しました。

●雪隠

便所つまりトイレのことを禅宗で“雪隠(せっちん)”と呼びます。とはいえ、トイレが禅宗とともに初めて日本へ来るまで、日本人は屋外で垂れ流しをしていたというのではありません。れっきとした“かわや”(側屋(かわや)、つまり本宅のわきに建てていた)ということばがありました。
ところで、この“雪隠”の由来には二説があります。むかし福州の雪峰禅師は、いつも他人の嫌がる便所掃除を引き受け、掃除し終わると便所内に坐って修行しているうちに、かつ然として大悟しました。雪峰が隠れて修行したので、便所を雪隠と称するようになったという説。もう一つは、雪竇(とう)禅師が杭州の霊隠寺で浄頭、つまり便所掃除役をしていたことがあるので、雪竇と霊隠の一字ずつをとって雪隠とつけたという説。日本の『禅林象器箋』には“雪隠とは西浄(せいちん)のことで、音が似ているところから、西浄のかわりに雪隠を使用するようになった”と載っていますが、どちらが正しいのかはわかりません。

●屏風

風を防ぎ、人目をさえぎる調度品ですが、中国には古くからあったようです。686年に新羅より綾羅、金器、鞍皮、絹布等と伝わったのが初めです。『東大寺献物帳』にはたくさんありますが、元来は六枚折りが本義でした。

回り燈籠

“影燈籠”とも“舞い燈籠”ともいいます。中国で宋代に出現した“走馬燈”にならって作ったものです。燈籠の影絵を利用し、人や馬等をシルエット風に紙で切り抜き、燈籠の中に設けた軸に取りつけて回転させます。江戸初期に伝来しました。なお、中国の回り燈籠は元宵節(旧1月15日、上元節ともいう)の宵に点されましたが、日本では中国と違って夏の夜の景物とされました。