原田 左之助

(はらだ さのすけ) 出身 伊予国和気郡松山 生没 1840(天保11)年〜1868(慶応4)年5月17日(?) 享年 29歳(?) 流派 種田流(槍術) 妻  町家の娘、まさ    子供 男の子2人   死因 戦死

原田は気が大きくて、小さい事にこだわったりしない明るい人柄だったと言われています。 新選組に入る前の、まだ浪人だった頃には、ふとした事から切腹。 幸い命は無事で、その後は周囲の人々に切腹傷を見せ自慢していたようで す。やがて試衛館に出入りするようになり、文久3年、近藤らと共に浪士組に 参加し上洛。得意の武器は槍で、池田屋事件の時も土方らと共に、槍を抱え て駆けつけ、力をふるって戦いました。1868年3月、甲州勝沼の戦いに敗れ 江戸に退却した頃、永倉と共に新選組を脱退。慶応4年5月15日、上野の戦い で負傷し、傷が癒えず死亡したそうです。しかし、日清戦争の際に『俺は原田左之助だ』と名乗った者がいたといもいわれています。 妻、マサと2人の男の子の父で、家庭的な一面も持っている人物でした。

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