武田 観柳斎

(たけだ かんりゅうさい) 出身 出雲国能義郡母里 生没 ?〜1867(慶応3)年6月22日 享年 不明 流派 甲州長沼流軍学 死因 新選組に暗殺された。 

新撰組は当初軍学を専門にした人物がいなかったので、観柳斎は入隊後すぐに新撰組に欠かせない人物となり、 近藤勇からも高く評価されていました。 そして兵法師範として大いに活躍しましたが、幕府が西洋式の兵法を取り入れるようになってから、 観柳斎の古流の甲州長沼流軍学は時代遅れとなりました。 そこで新選組に自分の居場所がなくなったと感じた観柳斎は、隊を脱走。 後に倒幕派の薩摩と関わっている事がばれ、新選組を裏切ったとして 竹田街道銭取橋にて斉藤一と篠原泰之進に、暗殺されました。隊内では、男色騒動を起こした事もあると言われています。

BACK                      TOP