メディチ家

ジョバンニ

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ピエロ

ロレンツォ

ジュリアーノ

ジョバンニ
(レオ10世)

ジュリオ
(クレメンス7世)

 

ジョバンニ・ディ・メディチ、レオ10世
(Giovanni de Medici、Leo X)(1475年 - 1521年)

最年少にして最もぶさいくな教皇

 レオ10世の本名はジョバンニ・ディ・メディチといいます。フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ豪華王の次男です。1492年、父ロレンツォの後押しで16歳の若さで枢機卿(ローマ教皇庁のナンバー2)になります。
 同年にロレンツォが死ぬとメディチ家の勢いは無くなり、1494年、フィレンツェを追い出されてしまいます。追い出されたあとはイタリア各地を渡り歩きローマで落ち着きます。1512年、ユリウス2世の支持のもとで、スペイン軍と一緒にフィレンツェに攻め込みます。そしてメディチ家は再び権力を取り戻します。
 1513年、レオ10世はユリウス2世が死んだあと37歳で即位します。(「最年少にして最もぶさいくな教皇」と呼ばれました。)
 レオ10世は戦争好きだったユリウス2世とは対照的に、平和主義者として振る舞います。外交ではフランスと神聖ローマ帝国がイタリアを巡る対立の中で、父ロレンツォゆずりの政治感覚を働かせます。
 1515年、フランス国王フランソワ1世がミラノに攻め込むと、レオ10世はそれを穏やかに解決し、フランスとボローニャ協定を結びます。
 1519年、神聖ローマ帝国マクシミリアン1世が死んだあと皇帝選挙が行われました。そこでレオ10世はフランス国王のフランソワを支援します。それはマクシミリアン1世の子、カール5世が即位するのを防ぐためです。しかし支援もむなしくカール5世が皇帝に選ばれてしまいました。しかし、レオ10世はルターの宗教改革に対抗するため仕方なくカール5世と同盟を結びます。
 ただ、レオ10世は政治の面ではなく、文化の面で教皇としての業績を残しました。彼は前教皇が取りかかったサン・ピエトロ大聖堂の建設を引継ぎます。そして、ミケランジェロ、ラファエッロらの芸術家のパトロンとなったことで、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えます。

新しきバビロン(空中庭園)

 レオ10世は聖堂や広場、洗礼堂の修復を行って前の教皇に続いてラファエッロを引き立てます。そして自分の肖像画やバチカン宮殿回廊の天井画・壁画、システィーナ礼拝堂の壁掛けなどを作らせます。そのためラファエッロが死んだ時はとても悲しんだそうです。ミケランジェロとは小さい頃から一緒にいるほどの仲良しだったのですが、気難しい性格だったためローマから遠ざけます。そして、フィレンツェでサン・ロレンツォ教会の仕事をさせます。
 レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂の建設資金のためにドイツで免罪符の販売を認めます。そのことがルターの宗教改革のきっかけとなってしまいました。また、レオ10世は贅沢が大好きで、多くの無駄遣いをしていました。自分達ばかりが甘い汁を吸っていた聖都ローマは、ルターに「新しきバビロン(空中庭園)」と非難されました。教皇庁は今まで一度も起きなかった財政破綻が起こり「レオ10世はユリウス2世の残した財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の三人分を一人で使い果たした。」とも言われました。
 レオ10世は40代半ばで急死します。体が弱く病弱だったせいで風邪をこじらせた、またはマラリアで死んだ、暴飲暴食が原因、毒で殺されたなど様々な死因が言われています。(1517年には暗殺計画もありました。

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