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文芸復興

文芸復興の兆し

 12世紀中ごろまでフィレンツェは美術、芸術とは無縁の場所でした。当時は、地中海で多くの町と交流し、栄えたピサが芸術の中心でした。
 フィレンツェ独特の性格を持った芸術が生まれたのは、彫刻家・建築家のアルノルホ・ディ・カンビオと画家のチマブエ2人の出現そのものだといえるのです。ディ・カンビオはフィレンツェ以外ピサ、シエナ、ペルージャ、ローマで、そしてチマブエはピサ、アッシージ、ボローニャ、ローマで積極的に活動をしました。
 アルノルホ・ディ・カンビオは、現在、私達が見るフィレンツェの街並を決定づけた人物です。ディ・カンビオはフィレンツェの象徴である花の大聖堂「ドゥオモ」の造った人物であり、他にもヴェッキオ宮殿、サンタ・クローチェ教会など重要な建物を残しました。 
 また、チマブエは、絵画での新たな立体的な表現を考えだし、その書き方は美しく、細かいものでした。そして、絵画に透明感、柔らかさ、高級感を与えました。当時、チマブエの影響を受けた画家ドゥッチョなどの作品にはやさしさ、微笑みが表現されています。
 14世紀になるとヨーロッパは歴史、経済、文化で、最高の時代になりました。そしてフィレンツェは商業、金融業などでヨーロッパの中心になっていきました。そして絵画においてはジョットが革命を起こしました。それまでの画家達とは違い、絵を建築のようにして、正確な三次元の表現方法を確立させました。また人間を描く時も、より自然な表情を求めていきました。例えば十字架にはりつけられ、処刑された後のキリストの体を自然さと立体感で強め、より現実に、そして簡単に表現することを試みました。この方法はチマブエの生きていた時代にイタリア中に広まっていきました。

文芸復興の幕開け

 ゴシック時代からルネサンスが始まる15世紀。その幕開けともいえるコンクールが1401年フィレンツェで発表されました。洗礼堂の2番目の扉の製作です。たくさんの応募者の中から、最終的にはロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキーの二人が残りました。二人はどちらが勝つかを決めるため、課題「イサクの犠牲(旧約聖書の伝説)」のパネル作成にとりかかりました。二人のレリーフ(浮き彫りという彫刻の手法)の大きな違いは、古典的なブルネッレスキーの作風に対して、ギベルティはとてもはっきりとした作風で、前面に出ているレリーフ(浮き彫り)と背景を一つに融合させるという新しい方法を使いました。結果は、ギベルティが勝ち、息子のヴィットリオと一緒に1425年から1452年の間、洗礼堂の扉を制作しました。そしてこれが、後に「天国の扉」と呼ばれるようになり、ダ・ヴィンチやミケランジェロなど多くの天才達を感動させました。
 ブルネレスキーは勝負に負けた後、古代の彫刻を勉強しようとしましたが、建築の勉強をすることになります。ブルネレスキーの最も素晴らしい発見は「遠近法」でした。彫刻の分野でも応用され、ドナテッロが彫刻の表面をより平らにするため、遠近法を使いました。残念ながら、絵画ではゴシック的な表現をしていたロレンツォ・モナコが当時の主役で、遠近法はマサッチオの登場を待たなければなりませんでした。当時フィレンツェで、絵画の分野はゴシック様式の頂点を極める時期だったのです。しかし、マサッチオは彼らの存在など無視して、自分の方法を創り出しました。マサッチオの表現方法はありのままの人間を描くものでルネサンス哲学と合っていたのです。そして何よりもマサッチオは、ブルネレスキーと友達だったおかげで、完全な遠近法を勉強することができたのです。また、彫刻の分野ではドナテッロが、それまでの表現と新しい表現の融合を試すようになりました。
 そして、新しい何かを探していた多くの芸術家達が参加し、フィレンツェはルネサンスへと向かい始めたのです。

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