ルイ ブライユ
ブライユの年譜とフランスの盲人教育の歴史についてまとめました。
年 | 年齢 | 出来ごと |
1771 | 9月。ヴァランタン・アユイ、村祭りで盲人たちが笑いものにされているのを見る。 | |
1784 | アユイ、盲学校をパリに設立。 | |
1786 | 盲学校の子供たちが、ヴェルサイユ宮殿でさわって読むやり方を実演。ルイ16世は盲学校に補助金を与え、援助することにした。 | |
1789 | フランス革命がはじまる。 | |
1791 | アユイの設立した盲学校が王立盲学校となる。 | |
1800 | ナポレオンの命令で、盲児は他の障がいをもつ人々のための収容所(カーンズヴァン病院)に入れられる。 | |
1806 | アユイ、パリの混乱を逃れて、生徒の1人レミ・フルニエとプロシアにいき、そこで学校をはじめる。 | |
1807 | ナポレオン軍が攻めてきたため、アユイとフルニエはロシアにいき、ここにも盲児のための学校をつくる。 | |
1809 | 0 | 1月4日、ルイ・ブライユ、フランス、クーブレ村に生まれる。 |
1812 | 3 | ルイ、3歳で事故のために片目を失明する。もう一方の目の視力も、だんだんに失われた。 |
1814 | 5 | ナポレオンの帝国が倒れ、ロシアの軍隊がクーブレ村を占領する。バルビエ大佐、夜、暗いところで通信文を書く方法工夫しはじめる。 |
1815 | 6 | ジャック・パリュイ、クーブレ村の神父になり、ルイを教えはじめる。王立盲学校、パリに再開される。 |
1816 | 7 | アントワン・べシュレ、クーブレの学校にルイを生徒としてうけいられる。 |
1819 | 10 | ルイ、アユイの創立した王立盲学校に入るためにパリを出発する。ルイ、ピアノを習い、才能を示す。 |
1821 | 12 | アンドレ・ピニエ博士、新しい校長になる。バルビエ、夜、暗いところで書く方法(ソノグラフィー)を、盲学校の生徒に見せ、生徒たちに喜ばれる。 |
1824 | 15 | ルイ、3年間工夫を重ねて、バルビエのソノグラフィーを改良し、アルファベットを点で書き表すやり方をつくり上げる。 |
1826 | 17 | ルイ、年少の生徒に、代数・文法・地理を教える。 |
1827 | 18 | フランス語の文法の本が、ルイの6つの点による文字に翻訳される。 |
1829 | 19 | ルイ、盲学校の助教員になり、点字と同じやり方で楽譜を書く方法を工夫しはじめる。医師たちの調査団が、盲学校の建物は子供たちの健康に悪いと判断する。 |
1829 | 20 | ルイ、「点を使ってことば、楽譜、かんたんな歌を書く方法ー盲人のためにつくられた盲人が使う本《を出版。これによってブライユ点字が正式に誕生した。 |
1831 | 22 | 父、シモン・ルネ亡くなる。 |
1833 | 24 | ルイ、近所の教会のオルガン奏者になる。この役目を、ルイは一生つとめた。 |
1834 | 25 | 学校の理事会、ルイの点字を生徒が使うことを禁止する。ルイ、パリの工業博覧会で6つの点字を公開する。 |
1835 | 26 | 肺結核の徴候を示す。 |
1837 | 28 | 盲学校の教師と生徒が、ルイの点字を使った本をはじめてつくる。 |
1838 | 29 | 5月14日、フランス国会で、アルフォンス・マリ・ルイ・ド・ラマルティーヌが、盲学校の建物の悪さを非難する。その結果、新しい建物をつくることが議決される。 |
1839 | 30 | ルイ、目の見える助手とともに、点字を印刷する器械の開発にとりかかる。 |
1840 | 31 | 副校長のアルマン・デュフォーと教師たち、ピニエ校長を引退させる。デュフォーが代わって校長になる。ジョーゼフ・ガデが、デュフォーのもとで副校長となる。 |
1841 | 32 | フランソワ・ピエール・フーコー、ラフィグラフを印刷する器械を発明する。 |
1843 | 34 | ルイの健康がおとろえ、クーブレ村で6か月、療養する。11月、新しい盲学校の建物が完成し、引越しもおわる。 |
1844 | 35 | 2月22日、新しい盲学校が公式に開かれる。生徒たち、ブライユの点字のよさを紊得させるような実演を見せ、公式にブライユの点字が認められる。 |
1847 | 38 | フーコー、ルイと協力して、ブライユ・タイプレイターを完成(かんせい)。 |
1850 | 41 | ルイの結核が悪化し、音楽の授業を何回かできるだけになる。 |
1851 | 42 | ルイ、盲学校内の病院に入院。 |
1852 | 43 | 1月6日、ルイ死去。クーブレ村に埋葬される。 |
1854 | フランスが、ブライユ点字を盲人のための書き方として公式に認める。 | |
1878 | ブライユ点字が、盲人にとって最上の方法であることが、国際会議で認められ、ブライユ点字を世界に広めることになる。 | |
1890 | 東京盲唖学校の石川倉次により、ブライユ点字を基にした50音を表記する日本点字が完成される。 | |
1917 | アメリカが、ブライユ点字を一般に使うことにする。 | |
1929 | 18か国がブライユ点字による楽譜の書き方を、国際的なものとして採用する。 | |
1949 | インドが、ユネスコにブライユ点字を、あらゆる言葉に使えるように一般化してほしいと提案。今日では、100以上の言葉、何百という方言に、ブライユ点字が使えるようになっている。 | |
1952 | ルイの遺体、クーブレ村から移され、パリのパンテオン-----フランス国民にとって最も栄誉ある場所-----に埋葬される。 |