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芹沢鴨暗殺の地「八木邸」


文久3年(1863)8月の「七卿落ち」の政変で活躍した壬生浪士隊ミブロウシタイは、晴れて幕府から「新撰組」の隊名を授かった。
幕府に提出し、後に公認となった新撰組閣僚名簿には長を芹沢鴨と近藤勇、副長に新見ニシキ、山南敬助、土方歳三、副長助勤に沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、平山五郎、斉藤一、松原忠司らの14人、監察に島田魁らの3人の名前が上がっている。
2人局長制で頭局長は芹沢だった。
局内選挙では当初局長だった新田が副長になった。
大阪などからも募集をかけて、隊は総勢100人を超える組織に膨れあがっていた。
「幕府直属の組織になったのだから、今まで以上の規律が求められる。一部の乱暴無頼の者は許さん」
と、近藤が「局中法度キョクチュウハット」の制定を主張した。
法度の制定は組織の維持と、芹沢一派追放の狙いもあったのだ。


武士上がりを鼻にかけ、農民の田舎道場を見下していた芹沢らの水戸派は不快感を持っていた。武士を夢見て浪士隊に参加した近藤にとって、徳川御三家の水戸藩くずれの傍若無人ボウジャクブジンの振る舞いは許せなかった。
水口藩の公用方が会津藩邸で隊の悪口を言った、角屋の宴席でもてなしが悪いなどと言い、さらには、相撲の力士に「あいさつがない」と言いがかりをつけ、力士を斬りつけるなどトラブルメーカーの芹沢に、近藤は業を煮やしていた。
そんな時、「芹沢暗殺」のシナリオが飛び込んできた。
芹沢の乱行はまだ続く。
借金を裏切られた腹いせに隊士を連れて葭屋葭屋ヨシヤ町の一条の生糸問屋・大和屋庄兵衛宅に押し掛け、土蔵ドゾウを打ち壊し火を放っただけでなく、駆けつけた所司代の火消役まで追い払い「愉快、愉快」と豪快に笑い飛ばして引き上げたのだ。
度重なる芹沢らの乱行に、世論は気に芹沢暗殺計画を練った。
9月半ばの大雨の夜。
作戦参謀の土方が芹沢を誘い出し、酒を注がれ、平山、平間ら水戸派幹部は、真夜中に遊女を連れて八木邸に帰ってきた。
眠りについた芹沢に土方、山南、沖田、原田ら試衛館の天才剣士・沖田が斬りかかり、土方も加勢した。
平山も山南と原田に首を斬られ、即死だった。八木邸には今も縁側の鴨居に芹沢殺害時の刀傷が残っている。
隊士や維新の志士も通った島原には、大門と置屋の輪違屋、揚屋が残る。
輪違屋の屏風には近藤の書が現存、角屋は「角屋もてなしの文化美術館」になっていて、揚屋遺構を残す重文建築。春秋の観光シーズンには一般公開される。

玄関口の柱に「新撰組の刀痕」があった。


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