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このページではダーウィンはどのような生涯を送り、どのような功績を残したのか迫ってみる事にします。
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西暦
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ダーウィンの生涯
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世界の主な出来事
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| 1809 | 2月12日チャールズ・ロバート・ダーウィン、イギリス中部のシェルズベリーに医者ロバートとその妻スザンヌの5番目の子供で次男として生まれる | |
| 1817 |
母スザンヌ死去 ケーズの学校に入学 |
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| 1818 | シェルズベリー校に寄宿生として入学 | |
| 1825 | 医学を学ぶためにエジンバラ大学に入学 | |
| 1826 | はじめての科学論文を大学の博物学会で発表する | |
| 1828 | ケンブリッジ大学に入学 | |
| 1831 |
・ケンブリッジ大学を卒業 ・8月29日に調査船の軍艦ビーグル号に無給の博物学者として乗り組まないかという招待の手紙を受け取る ・9月5日艦長フィッツロイに面会し、乗船を許される ・12月27日、ビーグル号、南アメリカに向けて出航 |
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| 1832 |
ビーグル号南アメリカ大陸の東岸に沿って南北に航海を繰り返す(主な寄港先はサンバドル、リオ・デジャネイロ、モンテヴィデオ、ティエラ・デル・フェゴ地区など 〜1834) |
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| 1833 |
アルゼンチンのプンタ・アルタで化石になった巨大動物の骨を発見する |
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| 1834 | ビーグル号、太平洋に入る | |
| 1835 |
ビーグル号、南アメリカ大陸西岸に沿って北上し九月半ばにガラパゴス諸島に到着、10月20日出航。 ビーグル号、帰国の航海をはじめる。ニュージーランド、オーストラリア、インド洋、希望峰をへて1836年10月2日、イギリスに到着 |
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| 1837 |
ロンドンの中心、グレイト・モールバラ・ストリートに部屋を借りる プンタ・アルタとガラパゴス諸島での見聞に刺激を受けて種の進化について研究しはじめる |
ヴィクトリア女王即位。ヴィクトリア時代となる(〜1901) |
| 1838 | マルサスの「人口論」を読み、生物の生存競争と進化との間に関係があることに気がつく | |
| 1839 |
1月29日、いとこのエマ・ウェッジウッドと結婚。 ビーグル号航海記を出版する |
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| 1841 |
ビーグル号探検報告の鳥、魚の部を完成 南米の地質に関する論文を発表する |
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| 1842 |
「サンゴ礁」という本を出版する 5月、種の起源に関する自分の理論のあらましを書き始める 9月、一家でケント州のダウン・ハウスに引っ越す |
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| 1844 |
「火山島」という本を出版する 種の起源に関するノートを完成する |
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| 1846 |
南アメリカの地質学に関する本を出版する 蔓脚類の研究をはじめる |
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| 1848 | 父ロバート・ウォーリングス死去 | |
| 1851 | 化石のエボシガイ類と蔓脚類の研究をまとめ、出版した | |
| 1853 | 王立学会から賞を受ける | |
| 1856 | ライエルの勧めにより「種の起源」の原稿を書き始める | |
| 1858 |
ウォレスより種の進化についての考えを書いた手紙を受け取る ダーウィンの書いていた進化論についての小論とウォレスの論文が同時にリンネ学会で発表される |
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| 1859 | 11月24日、「種の起源」がロンドンで出版される | |
| 1861 |
ドイツで始祖鳥の化石が発見される アメリカ合衆国で南北戦争が起きる |
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| 1862 | 「ランの受精」を出版 | |
| 1864 | 地質学、動物学、植物学上の研究成果に対して王立協会からコンプリート・メダルを受ける | |
| 1865 | オーストリアのグレゴール・メンデルが遺伝の法則を解明する | |
| 1868 | 「飼育下における動植物の変異」を出版 | |
| 1871 | 「人間の由来」を出版 | |
| 1872 | 「人と動物における感情表現」を出版 | |
| 1875 | 「食虫植物」と「登攀植物」(つる科の植物)を出版 | |
| 1876 |
自伝を書く 「他家受精および自家受精」を出版 |
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| 1877 | 「同一植物の花における異型」を出版 | |
| 1880 | 「植物における運動能力」を出版 | |
| 1881 |
最後の著書である「ミミズの作用による栽培土壌の形成」を出版 12月、ロンドンの友人を訪問中心臓発作をおこす |
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| 1882 |
4月19日、チャールズ・ダーウィン死去 4月26日ロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬される |