鎌倉歴代将軍は京より陰陽師を呼び寄せ政権の安定を図っていた。
つまり、陰陽道 は政権を守護し、存続させる為の霊的なテクノロジーとして機能するようになる。
兎に角、陰陽道の果たす役割の比重は、それまでの公家と武士とでは比べ物にならず、 劇的とも言える転換を遂げたことはほぼ間違い無いだろう。
室町時代には幕府が京都におかれた為、公家との結び付きがつよくなり、その影響 を強くうけることになる。
南北朝時代に安倍家は土御門家を名乗り、勢力を保った。
その一方、加茂家は勘解由小路家を名乗ったが、直系が殺害されたため後継者がいなくなり、土御門家が暦博士・天文博士を兼務した。
また、陰陽道は華道、茶道などの芸事や、田楽、能楽、歌舞伎などの芸能関係の成立にも、大きな影響を及ぼした。
戦国時代では陰陽道はどのように見られていたのだろうか。
武将達は、比較的陰陽師に対して褪めた目を向けていたようである。
つまり、信心深く信じるのではなく、 ただ方策として政治的に利用しただけである。
この点で陰陽道を最も活用した人物は徳川家康である。
家康は、土御門家を復興する一方、途絶していた勘解由小路家のかわりに、幸徳井家を採用するなどして、再建に努めた。
江戸時代には、古代日本の時のような国事を動かしてきたほどの政治的影響力は廃れ、他の宗教同様、幕藩体制を補佐するだけの存在にとどまった。
一方、宗家が没落していくかたわら、陰陽道は民間に浸透し、この時代には全盛を迎えていた。
こうして公的な物から私的な物へ変貌を遂げていった。
そして明治4年(一八七一)明治政府は、陰陽道の廃止を決定。土御門家は歴史の表舞台から完全に消え去った。
宮中でも、陰陽道関係の祭祀祈祷は撤廃された。しかし、民間陰陽師の影響で、信仰様式は一般民衆の中に根付いて行った。
また土御門神道は廃止後、天社土御門神道として土御門家旧所領地の福井県遠敷郡名田庄村に、 ひっそりと伝承されている。第二次大戦後に宗教法人となった。
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