続古事談 晴明と光栄の事
《現代語訳》
晴明が大舎人であった頃、笠をかぶって近江の勢多橋を渡っていると、慈光なる人物がこれを見て、一つの道に熟達する者であろう事を見て取り、その事を晴明に伝えた。
そこで晴明は陰陽師の具コウという者のもとへ赴いたが、具コウはその才能を認めなかった。
次に晴明が賀茂保憲の所へ赴いた所、保憲は晴明の内に秘めた才能を見て取って弟子として世話をした。
晴明はもっぱら術法に長けた者であり、学問については特に優れていたわけではなかったと言われている。晴明が保憲の息子光栄と議論した事には
「保憲はその生前、光栄を自分よりも優位において扱った事はなかった」
と晴明が申したところ、
「保憲が晴明を愛弟子として可愛がっていたからと言って、私を憎んでいた事にはならない」
と光栄は返答をした。そこで晴明が
「保憲は、百家の書を私に伝えたが、光栄には伝えなかった。これこそ、保憲が光栄よりも私を重んじていたという何よりの証拠であろう」
と言ったところ、光栄は
「父が所持していたその百家の書も、現在は私の所にある。また父は私に暦道を伝えたのだ」
と言ったということである。