日本ではじめてトキの保護が行われたのは江戸時代のことである。
幕府や各地の藩はそれぞれ鷹場や御留場(保護区〉をつくり、一般の人が狩猟することを禁じた。また仏教の影響で人々は殺生をきらい、狩猟はきわめて少数の、それを職業にする人だけに限られていた。したがって特別に保護が行われたのではないが、結果的にトキは保護されていたものと思われる。そのなかで加賀藩は,他藩からトキを移入して砺波平野に放ち、その付近を御留山として,樹木の伐採、立ち入り、鳥獣の捕獲などを制限し、手厚く保護したのである。これが積極的なトキ保護の最初の記録である。残念なことに、なぜトキを移入し放鳥したのかくわしい理由は書き残されていない。考えられる理由として、当時、諸侯の間で博物学がはやっていたことがあげられる。またトキの羽毛が矢羽として珍重されていたので、それを得るためではないかとも考えられる。実際に加賀藩では領民にトキの羽を拾わせ、それを買い上げていたのである。さてこのように、江戸時代はトキをはじめとする鳥獣が保護されていたことはわかったが、トキが多かったのか、あるいは少なくめずらしい烏だったのかということはよくわかっていない。ただ日本各地に分布していたことは古文書などからも明らかである。また1829年シーボルトか持ち帰ったトキの標本をもとに、オランダのライデン博物館館長テミンクが論文を書いている。それによるとトキは、「まれに見かける非常にめずらしい鳥」であったという。シーボルトはとくにトキを調べたわけではない。歩いた所がトキの少ない地域であったのかもしれない。このようなことを参考にトキの江戸時代の状態を推理してみると、タカの一種であるクマタカの現在の状況に似ているではないかと思われてくる。すなわち日本各地に生息しているが、けっして数は多くなく、またあまり人の目にもふれなかったということではないのだろうか。  <戻る>


明治維新とともに、江戸幕府が行ってきた鳥獣保護の制度は全廃されてしまった。そのためどこでも狩猟ができ、また新たに銃による狩猟が行われるようになった。こうしてトキをはじめとしてコウノトリ、ツル類、ガン類、ハクチョウ類などの大型の鳥類が乱獲された。とくに人里にすみ、人をおそれなかった美しいトキは、この間に絶滅寸前にまで追いつめられてしまったようだ。その後,1892年(明治25)に狩猟規則が,また1895年(明治28)には狩猟法が定められたが,これらの法律では銃猟の制限や保護鳥獣が定められただけであった。そしてトキは残念ながら保護鳥獣に指定されていない。トキにとっての暗黒の時代は1908年(明治41)にやっと終局を迎えた。この年に狩猟法施行規則が改正され,トキは完全に捕獲を禁止した絶対保護鳥に指定されたのである。ところが改正の担当者や事情を知る者はすでに亡く,そのためなぜ保護鳥に加えられたのか,また当時トキがどのような状況におかれていたかは不明である。
さて,トキが絶対保護鳥に加えられたことにより,どの程度保護されるようになったのであろうか。残念ながらそのような資料は残されていない。しかし当時の様子などからおおよその見当はつく。
闇から聞へ葬り去られたものについては何もいえない。しかし捕獲され,標本となって残っているものがある。これについて,トキが絶対保護鳥になった1908年(明治41)をはさんで,前後それぞれ30年、間のものをくらべてみた。結果は,指定前は8羽が捕獲され,指定後は7羽とほとんど変化がないことがわかる。しかも,26年後の1934年(昭和9年)には天然記念物に指定されているにもかかわらず,7羽のうちの2羽は,それ以後に射殺されているのだ。当時のハンクーの人口は約20万人。最も狩猟のさかんな時代であった。ところが多くのハンターたちはトキをみたことがない。だからまちがって射殺したあとは,よくみるとめずらしい烏だということで届けでたのではないだろうか。このころ保護烏を射殺した場合の罰金は40円。現在の約10万円に相当するが,トキを捕獲して罰せられたという話はこれまで聞いたことがない。トキが絶対保護烏に指定されたことが無意味であるというつもりはない。しかし,そのときにはすでにトキは絶滅にひんしてしまっていたのではないだろうか。  <戻る>