ザビエルの歩み

日本にフランシスコ・ザビエルが来日して、
451年が経ちました。
1549(
イゴヨク)広まっています、
キリスト教!

ザビエル!あなたは日本とキリスト教の架け橋!

では皆さんにザビエルの歩みをご紹介しましょう。


ナバラ

ナバラ王国は、スペイン北部ピレネー山脈のふもとに位置する。
ザビエルは、このナバラ王国にある
ザビエル城の城主の末っ子として生まれた。




パリ
−改心の地−

19歳の時、パリ大学に入学。
そこで、15歳年上のイグナチ
オ・ロヨラと同室になる。
27歳になったザビエルは富や名誉
を捨て、
貧しきキリストにしたがって生きることを決め、改心
した。
そしてイグナチオやその他7名の同志とともに
モンマル
トルの小聖堂の地下室にて、誓願をたてる。


ロー

1537年、同志とともにローマに巡礼し、
教皇パウロ3世に
謁見。
そこで司祭叙階と司牧宣教の許可を受ける。
2年後、教
皇はローマ以外へ同志を派遣する意向を表したため、
イエズス
会を設立することを決定した。
その1年後には正式な許可を受
ける。
そして1540年3月、ザビエルはインドへの派遣を命
じられ、
ローマを出発した。




ゴア

  1549年、ザビエルはゴアに到着。
その後、何度かこの地に立ちより、
布教活動を実施。
日本
滞在中には、このゴアに礼儀
  正しい日本人の印象をまとめた手
紙を送っている。
上川島で昇天した後、遺骸はここへ移され、
今も眠っている。


セラン島 −奇蹟の起こった地−

ザビエルの身に起こった奇蹟のひとつとして有名なのが、
セラ
ン島での蟹の奇蹟である。
ザビエルがアンボイナ島からセラン
島へ布教に赴いた時、
嵐の中でザビエルは愛用の十字架を海に
落としてしまった。
嵐が鎮まって、ザビエルが浜辺にたどりつ
くと、
近づいてきた蟹がそのはさみに、
なくしたはずの十字架
をはさんでいたという。


日本 −上陸の地、鹿児島−

ザビエル一行が上陸したのは、
おそらく稲荷川の河口だと言われている。
ザビエルが上陸した8月15日は、聖母被昇天の祝日で、
神の愛を広めようと誓ったパリ・モンマルトルの日から15年目、
ザビエル43歳の時だった。
ザビエルの手紙によると、
アンジローの町では城代や奉行も大変好意的で、
一般の人々もすべて歓迎してくれたと書かれている。
9月29日、ザビエルは伊集院で領主島津貴久に謁見し、
   宣教の許可を得た。
鹿児島と市来の鶴丸城で百人くらいに洗礼を授けた。
ある時は禅寺の福昌寺を訪れ、年老いた僧侶忍室と親しく付きあったが、
島津貴久が家来の受礼を禁じたので
一年を経ても洗礼者は150名にも達していなかったといわれる。




上川島 −昇天の地−

上川島は当時、密貿易の基地であった。
ザビエルは中国本土に
渡るため、この地に上陸。
ポルトガル人とともに訪れたこの
上川島でザビエルは、
中国布教の夢、日本再訪の希望を果たし
えぬまま、
1552年、46歳にして逝った。
病により、粗末
な漁師小屋で、中国人アントニオただ一人という、
非常に寂し
い死を迎えたのである。


マカオ −右上腕部が眠る地−

日本ではキリスト教徒の迫害が行われており、
その信者を激励
するために
上腕を日本に運び込もうという動きがあった。
そし
て1620年、まずマカオに持っていったが、
日本が鎖国体制
をとっていくので、このマカオにとどまってしまった。



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