茶は昔中国から渡来したもので、それは奈良朝時代上層階級の一部に 喫茶の風習があったことより、少なくも千二百年前のことだろう。 その後は近畿諸国に栽培されていき、千余年前には広く各地に栽培されたらしい。 そしてそれらは主として僧侶及び上層階級に飲用された。
鎌倉時代になって栄西禅師をはじめ幾多の禅僧が、製作法及び喫茶法を わが国に伝えてどんどん進歩していった。
喫茶の目的は鎌倉時代までは、思索生活の伴侶として用いられたが(時には薬用)、 南北朝時代に及んで、喫茶を遊戯的に用い、闘茶とて茶の品種を飲み分ける競技が 行われ、それが当時の武人の闘争性に適合し、盛んに闘茶会を開き、物を賭けて 茶を飲み競べ、山海の珍味を食し、さらに博奕(ばくち)まで行って、 茶会を終わるといった風のはなはだ享楽的な茶会であった。
東山時代になり武士が教養を積むと、もっと精神的な香気高いものを 求めるようになる。そうした時代を背景に、村田球光が喫茶法に禅的思想を織り込み 「清浄礼和」を本旨として、台子風炉を用いる書院式喫茶法をくふうした。これは 鎌倉初期への復古的運動とも言えるのである。
武野紹鴎は漸次草庵風の茶事に進み、初めて「炉」を切ったと伝えられている。 そして千利休は紹鴎に学び、卓越せる才能によって単なる喫茶を宗教的に、道徳的に、 芸術的に、茶道にまで完成したのである。
茶道の大成については、織田信長、豊臣秀吉の愛護を軽視してはならない。 彼等はそれを政治的に利用したが、最初の動機は雑漠たる武人生活の半面、 茶道に精神的慰安を求めたと見るべきだ。利休は「和敬静寂」を唱えたが、 利休の「和敬静寂」をそのみに体し簡素な生活に甘じ、所謂侘茶に徹したのは 利休の孫、宗旦である。
宗旦の侘茶に対し、別の行き方をしたのは、小堀遠州である。彼の茶道は 華美な技巧的なものであった。
その後、徳川氏治下の太平な時代に茶の湯はますます盛んになり、 幾多の流派を生じたけれど、現今我々が茶道と唱えているものは、 実に利休の「和敬静寂」を本旨とせるもので、三百五十年の長きにわたり 国民の文化生活に重要なる1つの役割を占めている。
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