何しろ秀吉の喧伝がうまいものだから、かたや主君を殺したぎゃくぞくの明智光秀、
こなた主君のあだをうとうとする大忠臣の羽柴秀吉、という文句が都の内外に
標語みたいに広がっていく。
「こう評判が悪くては、うっかり明知のほうへは近づけぬぞ。」
「明智に味方しては、わしまでぎゃくぞくよばわりされてしまうわ。」
あちこちの大名やら武将が、このような見きりになってしまう。
そのころでも世論というのは、やはり大きな力を持っていたのだ。
このとき明智光秀は近江の坂本城にいて、味方になってくれそうな武将に
せっせと手紙などを書いたり、あれこれ情報を集めていた。
「申し上げます。」
と、そこへ伝令がやってきて、
「いよいよは柴勢は、丹羽長秀、池田信輝の軍勢と合体して、山崎口から京都へ
進入してくるようでござりまする。」
「山崎口に近い勝竜寺城は、わが手にある。その対岸の淀城へも兵を入れ、山崎口で敵をむかえうつことにいたそう。」
と光秀である。
さっそく勝竜寺城と淀城へ、ありったけの兵を送りこむ。
光秀みずからも坂本城から出て、淀の城にとどまる。そこへまた伝令だ。