豊臣秀吉の生涯

1537年 (天文6年) 2月6日、尾張の国(愛知県)の中村で生まれる。
1543年 (天文12年) 父弥右衛門が死ぬ。翌年、母は竹阿弥と再婚する。
1544年 (天文13年) 事情があって、光明寺というお寺に小僧として預けられる。 寺を飛び出して家に帰るが、また家を出て、針を売りながら、 仕える人を探して旅に出る。
1551年 (天文20年) 蜂須賀小六に出会い、その下で働くようになる。但し、 蜂須賀小六の他に、松下加兵衛という侍に仕えた、という説もある。
1554年 (天文23年) 織田信長に仕え、馬の世話をする仕事に就く。
1555年 (天文24年) 織田信長の草履取りになる。
1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦いに出る。
1561年 (永禄4年) 寧寧と結婚して木下藤吉郎と名乗る。
1566年 (永禄9年) 蜂須賀小六らの力を借りて、墨俣に城を造る。
1567年 (永禄10年) 稲葉山城を攻め落とす。
1568年 (永禄11年) 織田信長が京都に入る。
1570年 (元亀元年) 姉川の戦いで、浅井・朝倉の軍に勝つ。
1573年 (天正元年) 近江の国(滋賀県)の殿様になる。
織田信長が将軍足利義昭を京都から追放。室町幕府は滅びる。
1575年 (天正3年) 織田信長が長篠の合戦で武田勝頼をやぶる。
1576年 (天正4年) 織田信長が安土城を築く。
1577年 (天正5年) 中国地方の毛利との戦いに総大将に選ばれて、播磨の国(兵庫県)を攻める。
1582年 (天正10年) 高松城を水攻めにしていたが、6月2日に織田信長が本能寺で明智光秀に殺されたことを知り、 すぐ引き返して13日に山崎で明智光秀を滅ぼす。
1583年 (天正11年) 4月、賤ヶ岳でライバルの柴田勝家を滅ぼす。9月、大阪城を築き、天下統一の準備を始める。
1584年 (天正12年) 小牧・長久手で徳川家康と戦うが、勝負がつかず、いったん仲直りする。
1585年 (天正13年) 太政大臣になり、豊臣の苗字を名乗って豊臣秀吉になる。
1587年 (天正15年) 3月、九州に出陣し、島津義久を従えて、九州を自分が治めるようにする。 6月、バテレン追放令を出して、キリスト教が広まらないようにする。 9月、京都に聚楽第が完成する。10月北野で大茶会を開く。
1588年 (天正16年) 刀狩令を出して、農民の武器を取り上げる。
1589年 (天正17年) 側室の淀君、鶴松(捨て)を生む。
1590年 (天正18年) 関東の北条氏を破り、東北地方も支配して、全国を統一する。
1591年 (天正19年) 農民が農業以外の仕事に就くことを禁止して、武士と農民の身分をきっちり分ける。 太閤を名乗る。千利休を切腹させる。
1592年 (文禄元年) 鶴松が病気で死ぬ。朝鮮に軍勢を送る。
1593年 (文禄2年) 淀君が秀頼を生む。
1597年 (慶長2年) 明の国からの手紙の内容に怒る。このあと、再び朝鮮に軍勢を送る。
1598年 (慶長3年) 病気が重くなり、、8月18日に伏見城で亡くなる。



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