柳田國男の『妖怪談義』から

 今このページを見ている人の中には、「妖怪を学問する」と聞いてもピンと来ない方がいらっしゃるのではないかと思う。

しかし、妖怪は元々「文化」であり、「妖怪学」は確かに存在するのである。この「妖怪学」は所謂「民俗学」というものに含まれる。

ここでは、民俗学の権威である柳田國男氏の妖怪論を参考に、妖怪を学問していこうと思う。

 いわゆるお化けの問題が学問の対象になるのかどうかを考えるとき、まず、柳田國男の『妖怪談義』が一つの参考になるだろう。妖怪はいわゆるお化けのことである。そこで、何故お化けを研究するのかということについて、柳田國男は問題を提起しているのである。   そもそもお化けとは人間の作り出した文化の産物であるが、合理的に説明のつきかねる世界に属している。いわゆる知識人の考えるお化けとは別に、ごく普通の庶民が日常生活の中で、いうにいわれぬ感情を持っていたことは明らかである。それは説明のつきにくい生活感情、或いは潜在意識の中に横たわっているものであり、深層心理に属している。それを研究対象として客観化できる領域に引き上げて、特に民族文化の問題として考えていく場合に何が明らかにできるのであろうか。

 柳田國男はこう言っている。第一に日本人が持っている畏怖感というもの、これは恐怖の感情である。この畏怖感の最も原始的な形はどんなものだったのだろうかと設問している。恐怖とか畏怖とかの感情が基本にあって、それが様々に変化していき、お化けを生み出すようになってきたのだという。

 いわゆる、不可思議な感情については、現代人であればあるほど馬鹿馬鹿しい話として、笑い話とか戯れ話とか、そういう形でしか理解できないような対象になってしまっている。しかし、日本文化の歴史の中に、畏怖とか恐怖の原始的な文化の型をとらえるとしたらどうなるだろうか。それを明らかにしていくと、少なくとも日本人の人生観や信仰・宗教の変化を知ることができるのではないかと柳田國男は『妖怪談義』のなかで述べている。

 この問題を考えるとき、現代の文明が高度に発達してきた社会の中には、依然として古代的信仰の残存という形である種の民族資料があるわけで、これを単に昔から現代社会に残っているのだという表面だけで考えずに、現実の我々の生活の中に不可思議な世界が残っており、しかも現実に機能している、そして何かの意味を我々の日常生活の中にもたらしているのだ、という考え方をする必要がある。

 柳田國男は、妖怪は神の零落したものであると考えている点に特徴がある。その点を批判した小松和彦は妖怪が神の零落したものだとした場合には、まず初めに神が存在して、妖怪は存在していなかったことになるとして、神から妖怪へと一元的に変化してきたという柳田の考え方に疑問を投げかけている。その根拠は、『古事記』や『日本書紀』、或いは『風土記』等の古文献には、様々な災悪をもたらす存在が描かれている。それはいわば魔なのであって、後世の妖怪と同じ超自然的な存在が常にあった事が分かる。それが人間に対して災悪を与えるということは確かにあったのであり、人類が直立歩行して、火を管理し、道具を作り、言語を用いた段階には、恵みを与え、守護してくれる神と、災悪をもたらす魔、つまり妖怪とは、両方が併存していたに違いないとする。

そこで何が問題なのかというと、柳田國男のように、妖怪は神が零落した姿だといってしまうと、妖怪は当初は存在していなかったことになってしまう。そうではなく、初めから、神と妖怪は併存対立して存在していたものと見るべきであろう、というのが小松和彦の考えといえる。しかし、一介の高校生である私の個人的な意見としては、少々柳田國男氏を弁護する形となる。勿論全ての妖怪が神の零落した姿であるとは私も考えていない。初めから妖怪として生まれた妖怪もいるだろうし、全ての妖怪を神の零落した姿とするのは強引過ぎる。それでは説明できない妖怪も実際にいる。しかし、少なくとも一部の妖怪は、元々は神だったのではないかと思うのである。例えばキリスト教などでは、「初めに光があり、続いて闇が生まれた」ことになっている。つまり、「魔は後から生まれた」ものとされているのである。それから、北欧神話の神々。彼らも古くはバイキングをはじめとする多くの人々に信仰されてきた神々だが、やがてキリスト教が入ってくると、その存在は正に悪魔そのものとなってしまう。また、地母神なる存在も、大地の守護者、或いは創造者として崇められてきたものが、他宗教の侵入により、邪悪で打ち倒されるべき存在へと変容してしまう例である。日本でも、夜刀神などという妖怪は、もともと池を守る水神であったのに、信仰が薄れていく中で棲むべき土地も信仰してくれる民も無くなってしまい、とうとう今日に至っては妖怪の一種とされてしまっているのである。狐の神である茶枳尼天も、妖怪とみなされたりしている。このように、初め神として在ったものが、時代の流れとともに信仰を失ったり他宗教に征服されたりして、邪悪なる存在へと姿を変えられてしまう事例は幾つもある。中には初めから邪悪な神とされているものすらいる。彼らが時代の移り変わりとともに本来の存在意義を無くし、単に邪悪な存在であるという解釈だけが残ってしまい、何時しか魔物と呼ばれる存在になった例も多いのではなかろうか。或いは、妖怪が神格化して生まれた神などもいるであろう。例え元が「魔」と呼ばれる存在であったとしても、その存在が人々にとって好ましいものと判断された場合、神に転化することは有り得る筈だ。

しかし、先に生まれたのが神にしろ魔物なり妖怪なりと呼ばれるものにしろ、その本質的なところは目に見えぬもの、人間の力では到底どうすることもできない超自然的な力への畏怖や恐怖であったのではなかろうか。もしそうであれば、結局は、神も妖怪も姿形は違えど同じカードの表裏のようなものなのではないか、と私は思うのである。

 そもそも「妖怪」は古くは「物の怪」といい、正体不明なもの、その存在に対しては不思議な感情或いは不安な感情を抱かせるもの、であったらしい。恐怖心を起こさせて、そこに人間の知恵とか理解を超えた、超自然的な働きを見とめさせるもの。それが「物の怪」であったならば、それは「神」であり「魔」でもある筈である。

 同じ「神」と呼ばれる存在にさえ、祭り上げられて恵みを与える神と、祭り棄てられて災悪をもたらす神の二面性がある。これは日本の神観念の一つの特徴である。そのどちらがより強く出るかという点に特徴がある。神の二面性の一方から出てきた邪悪な部分に対し、善なる部分がより強く印象付けられていると言える。一方、人間が魔を祭り上げる行為によって、進化させることがある。ところが、祭り棄てられたままの状態が長く続いていると、魔や妖怪のイメージとなって人間に対し復讐してくる。これがすなわち妖怪観の基本である。この基本から言っても、やはり「神」と「魔」は互いに相反するものとされながら、いつでも「神」から「魔」に、或いは「魔」から「神」に転化し得る可能性が有るのである。

 とは言いつつも、やはり現代の世界では神と妖怪は全く別のものになってしまっている。「妖怪」のイメージが江戸時代に盛んにクローズアップされ、デフォルメされたのが原因の一端であろう。特に文芸の世界にはそれがはっきり表れており、いわゆる幽霊はその一連の表現となっている。現代の社会にも、人間の霊魂から派生してくる、怨霊や悪霊、祟り、憑きもの等、そういう現象が依然として温存されているのである。

 『妖怪談義』のなかで、はっきりと説かれてはいないが、妖怪変化のイメージが都市の住民たちが作り出したものであることは明らかだろう。民俗学上は世間話と一括されるフォークロアの中に、妖怪譚が数多く採集されており、いずれも怪奇味の要素が濃厚である。柳田國男氏の説は一理あると私も思うのだが、先程も述べたとおり、氏の説は全ての妖怪に当てはまるものではない。都市文化から生まれたいわゆる妖怪変化の全てを言い尽くすのは難しいのである。

 ところで、「お化け」については誰でも多かれ少なかれ関心を持っていることと思う。「オバQ」や「ゲゲゲの鬼太郎」、「ゴジラ」などは誰もが知っている代表的な「お化け」であろう。

ところでゴジラは海の彼方からやってくる大怪獣であるが、これと同じモチーフを持った妖怪・鯰男がちょうど安政ニ年の大地震の際に出現した、という話がある。この鯰男もゴジラ同様海の彼方から現れ都市を破壊していく大怪獣である。彼らが都市文明を破壊するということにはどんな意味があるのだろうか。大鯰やゴジラは自然界をシンボライズした姿である。そして鯰男にしろゴジラにしろ、妖怪変化の形をとっているのである。怪獣、或いは妖怪と言われるものは、人間が作り出したものであり、且つ人間自身を滅亡に導く方向を持っていることは確かだが、興味深いのは破壊した後に人間世界を再生させようとする意図が秘められていることである。巨大な都市文明が破壊された後、また新しいものが作り出されてくる、そういう考え方が基本にあると思う。

 これは自然と人間の関係において、人間のほうが自然に対して潜在的に抱いている考え方の一つである、というのが、この文を書くにあたって参考にさせて頂いている宮田登氏の意見であり、私もそれは正しいと思うのだが、私はここでもう一つの意見を述べたい。

これも私の意見というよりは他者の意見の引用なのだが、最近私が現代文の授業で習った「私の八月十五日」の中に、「人間は、人間自身を滅亡に導くかもしれないものを次々と創り出している。しかし、人間は、未来を暗くしたくはない欲望を持ってもいる」という内容の事が書かれていた。これも、ゴジラや鯰男が都市を破壊した後人間を救済する理由ではないかと私は思う。例え映画の中の話に過ぎないとはいえ、やはり世界が破壊されて終わるような結末であれば、ゴジラがあれほどの人気を誇る事はなかっただろう。

人間は妖怪を作り出したが、それを打ち倒す方法も同時に考え出した。人間とて一方的に滅ぼされることを望んで妖怪を作ったわけではないのである。それが証拠に、我々は妖怪を恐れる一方、親しみを持って受け入れている。愛してもいる。如何な人間とて一方的な破壊者を愛したりはすまい。我々にとって妖怪は破壊者であるが、決してそれだけではない、魅力的な存在である。それは、妖怪変化というものが自然の象徴であるからだろう。自然は、時に圧倒的な猛威を振るって我々人間の生活を脅かす。と同時に、自然は我々人間に様々な恵みを与えてくれる、我々にとって魅力的な愛すべき存在である。我々が妖怪を恐れたり愛したりすることは、深層心理における人間と自然の関係を象徴的に表すものであるといって良いだろう。

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