演義と正史の比較
正史と演義を色別に見やすくしました。
演義 正史
劉備を邪魔する者のほとんどが悪役として書かれている。面白くしようとしてこうなったようだ。
魏を王朝として認め、演義は、劉備を漢の後継者とみなし、また正史を元にして書いている。
最初の場面
劉備・関羽・張飛の三人が、黄巾の賊に立ち向うことを誓う。
このような記述はなく 劉備は、関羽・張飛と仲がよく兄弟のようだったという話しか載っていない。脚色されている部分である。
黄巾の乱の時
宛先城に立てこもった黄巾の賊を朱儁と劉備が攻撃をしていたが、そこで手柄を立てた孫堅を朱儁が朝廷に言ったことにより左軍司馬に。
中郎将の朱儁が孫堅を左軍司馬に推薦している。
袁術から独立したことに喜んだ曹操は、孫策を討逆将軍に任命。さらに、
曹仁(従兄弟)の娘を嫁がせている。
弟の娘を孫匡に嫁がせる。
孫策が死ぬ前、
孫作の部下たちが仙人の信者になったことに怒った孫策がその仙人を殺す。その仙人が幻影となって毎晩現れ、それに悩まされて傷が悪化してそして最後に遺言を残して死ぬ。
弟や、重臣を呼び、後のことを任せて死ぬ。
赤壁の戦いの前
戦いが始まる前に、諸葛亮が周瑜から十万本の矢を十日間で集めろといわれる。 諸葛亮は、曹操の軍へ行き十万本の矢をそろえた。
この策は孫権が別の戦いで用いた作戦であった。
赤壁の戦い
周瑜が黄蓋をむち打ち、魏に降伏するように見せかけて、策士であるホウ統を魏に送り込み 船を繋ぎ合わせ、諸葛亮によって東南の風を吹かせ戦いに勝利したということになっている。
諸葛亮が劉備の使者として呉に赴き、孫権を説得させ開戦に持ち込み偶然にも吹いた東南の風のおかげで勝利をおさめたということが書かれている。 劉備の軍はほとんどと言っていいほど何も行っていない。

このように、三国志演義には史実に書いてなかったことを書いたり、
実際にあったことなのに行った人の名前を変えて書かれたりすることもある。
中には、正史と演義をわざと混ぜて訳し書かれたものもあるので、
両方を読んで比較するのはいいが、混乱しないように注意したいものだ。