戦史

数々の激戦を年代順に紹介していきます。

黄巾の乱 一八四年
「蒼天己死。黄天当立。歳在甲子。天下大吉。」 (「そうてんすでにしし、こうてんまさにたつべし。としはこうしにありて、てんかだいきちならん。」 ・・つまり、漢の王朝はいま腐敗しているから黄色を主とする新しい王朝を作ろう。と、言うこと。) を、スロ−ガンとして張角(ちょうかく)をはじめとする宗教、太平道(たいへいどう)の団体が起こした乱。 黄色い巾をしていたことからこの名前が付いた。洛陽はこのころ天災に見舞われ政治は混乱し異民族の侵入などによってひどい状態が続いていた。 困っていた農民は張角の元に集まってきた。彼らは役所を目標として攻撃を始めた。それを見た朝廷も黙ってはおらず、 皇后の兄であった何進(かしん)を使い洛陽近くの関八つを閉め、都を守った。皇帝の霊帝は党固の禁を解き、廬植(ろしょく)、皇甫嵩(こうほすう)、 朱儁(しゅしゅん)らを黄巾の討伐に派遣する。皇帝は宦官の思う通りにされていた。そして皇甫嵩が張角の弟、張梁(ちょうりょう)と戦って勝ったあと、 張角がすでに死んでしまったことを知り、残ったもう一人の弟の張宝(ちょうほう)を攻め、乱は平定された。
その後・・・洛陽は外戚(皇帝の母方の親戚らのこと。)と宦官の間で混乱していた。外戚の何進は、宦官をなくすことを決意し、各地の武将を招集した。しかし計画がばれてしまい、殺されてしまう。これによって少帝と陳留王(ちんりゅうおう)は宮中から追われてしまうが、董卓が少帝と一緒に洛陽に行き、何進の部下を自分のものとして呂布を裏切らせて丁原(ていげん)を殺害して洛陽を掌握した。 しかし、董卓の横暴に反感を抱いた袁紹は、反董卓軍を作り、董卓を倒すことになる。董卓の部下であった呂布によって、献帝の快気祝いの宴中に裏切られて董卓は殺された。しかし、呂布もまた、董卓の部下たちによって逃げるはめにあう。そして袁術の元に逃げたが彼は態度がでかく、袁術に邪魔がられ、袁紹の元に。だが袁紹にもまた邪魔がられ、陳宮(ちんきゅう)と組む。
下ヒの戦い 一九八年
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曹操は献帝を許(きょ)に迎え入れ勢力を伸ばしていた。 陶謙(とうけん)を討伐中に寝返った陳宮を討つために曹操は呂布、陳宮を攻めた。しかし、曹操に負け、呂布は劉備を頼った。 しかし、劉備は呂布から曹操の元へ。呂布の身勝手さに怒った彼の武将たちが曹操側に寝返り、曹操と劉備によって呂布は殺された。
その後・・・最大領土をもっていた袁紹と曹操が戦い、孫策も独立に向け、動く。
そして・・・
官渡の戦い 二〇〇年
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勢力を伸ばしつつあった袁紹は、曹操討伐を試みた。曹操は、官渡にいた。袁紹は白馬の曹操の軍を攻撃しようとしたが、曹操は延津(えんしん)に向かう。川を渡るように見せかけて白馬を奪った曹操は、延津で袁紹に勝つ。袁紹が曹操を追いつめ、官渡の城まで追い込んだが、曹操が食糧輸送隊を攻撃し、袁紹の軍は傾き、曹操が勝った。
その後・・・曹操に負けた袁紹は袁尚(えんしょう)と袁譚(えんたん)を後継者に決められないまま死去し、兄弟争いが起きる。そこに荊州を攻撃しようとした曹操が袁譚に加わり、ことごとく負けた袁尚は、親戚を頼るが結局曹操に討たれてしまい、袁術尚の血縁者はすべて殺されてしまう。一方、官渡の戦いで負けた劉備は樊城にいたが、曹操の南下を聞いて逃げた。しかし劉備は曹操に完璧に叩きのめされてしまう。そこで、長阪橋を張飛が切り落とし、曹操をくい止めた。そして、呉の孫権は、父・孫堅の敵である黄祖を討つため、攻撃していた。黄祖を助けたのに褒美をもらえなかったという理由で甘寧も呉に味方し、孫権は五回目の戦いで父の敵を討つ。
赤壁の戦い 二〇八年
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赤壁です。岩壁に赤い字で
”赤壁”と書いてあるのがわかりますか?
逃げ場に困っていた劉備は、諸葛亮の進言で、呉へ身を寄せることにした。 曹操の軍二〇万が長江を挟み孫権・劉備の連合軍5万と対峙した戦い。 広陵から南下してきた曹操軍を防ぐために、同盟を結んでいた孫権と劉備が迎え撃った。曹操の軍は北方出身者がほとんどだったため騎馬戦など陸地で戦うには強力だが、 水上戦の経験が浅く、水軍が整ったのも、戦う直前だった。それに対し孫権軍は水軍が得意であったが、それでも二〇万対五万という 兵力の差は大きく、曹操の軍のほうが有利のようだった。しかし、波になれない曹操の兵士たちは船酔いをしてしまう。そこで曹操は船を鎖で つなげて船酔いを防いだ。この曹操の 水上要塞に呉の黄蓋が降伏と見せかけ火を放った。鎖で繋がれていた曹操の船に炎は次々にまわり、曹操の軍は壊滅した。大敗した曹操は、 南征をあきらめた。
その後・・・赤壁の戦いに負けた曹操は、許に戻り、劉備は蜀を乗っ取るために動き出した。葭萌(かぼう)から成都へ向かった。成都を守っていた劉キは三年間の戦いをしたことに責任をとり、無血開城をした。こうして蜀を占領した。そのころ、孫権は曹操にまた攻められるが、曹操は負けて引き上げていった。その後、孫権が魏を攻めるが、失敗に終わり、また・・・
樊城の戦い 二一九年
孫権が合肥(ごうひ)に攻め入ったので、曹操も迎え撃った。そこを関羽が北上し、樊城を包囲した。しかし天候が悪く、どの戦いもうまく決着がつかなかった。孫権は呂蒙に江陵を攻撃に出させ、糜芳(ひぼう)を戦わずに降伏させた。関羽は麦城(ばくじょう)に立てこもったが、孫権の嘘の降伏に引っかかり、息子の関平とともに殺されてしまった。こうして劉備は関羽と荊州をなくす。
夷陵の戦い 二二二年
帝位に就いた劉備は、関羽の敵と荊州奪回のために東征を行う。周囲に反対される上に、東征前には、張飛が暗殺されてしまっていた。このような状況の劉備と対戦したのは陸遜だった。彼は、蜀との持久戦で隙をつき、火計によって劉備の軍を大敗させた。白帝城(はくていじょう)に逃げ込んだ劉備は発病し、やがて病没する。
その後・・・劉備がいなくなってしまい、丞相の諸葛亮は、南征によって足元を固める。その後、魏への北征を始める。二二八年に一次討伐を行い、二二九年に二次を行い、魏の将軍の王双(おうそう)に勝つ。そして二三〇年の三次では武都・陰平(ぶと・いんぺい)を平定。二三二年に将軍の張コウを討つ。四次である。そして迎えたのが
五丈原の戦い 二三四年
諸葛亮の第五次北伐。対する魏の将軍は司馬イで、南の渭水に陣を敷いた。諸葛亮は司馬イをつついたが、応戦する気もなく、司馬懿は持久戦をしてきた。諸葛亮は陣中で病没する。蜀の軍勢が撤退したとき、司馬懿が視察に来た。"死せる孔明、生ける仲達を走らす"である。
蜀平定の戦い 二六三年
蜀の宰相費イが魏から投降した者に殺されてしまってから蜀は急に衰え始める。魏の相国の司馬昭は、蜀討伐のチャンスと考え、蜀を攻める。蜀の劉禅は、使者を送り、降伏を願い出た。こうして二六三年に蜀は滅びる。
その後・・・司馬炎が魏から禅譲を受けて晋を建国する。 最後に残った国は・・・
呉平定戦 二八〇年
孫権の孫、孫晧が皇帝となっていたが、暴君であったため、呉は混乱していた。まだ、晋と戦っていた陸遜の子の陸抗がいた頃は晋も動けなかったが、彼が病死すると、晋は動き出した。連戦連勝をした晋は、呉の将軍張象(ちょうしょう)を降伏させる。その後、魏の王叡(おうえい)が建業に入城し、降伏を願い出た。
こうして呉が滅び、
晋が三國統一を果たした。