高等学校入学まで
尋常小学校から旧制中学校を経て第三高等学校入学までの時期。

梶井基次郎は大阪府西区土佐堀通りに
父 宗太郎、母 ひさの間に 次男として産まれました。
基次郎には姉、兄と弟が三人いましたが弟の一人は10歳で夭折してしまいます。
その他にも異母妹弟がいます。

父には酒のみで情にもろく子供に甘い、
憤りを子供に直接ぶつけることもできない人物というイメージがあったようです。
ですから基次郎はそんな父に批判の対象というよりは
同類としての憐れみや情け、共感を持っていたようです。

梶井には母親にたいする複雑な心情がありました。
母には父や自分の自堕落な性格とは反対に、
正直で、賢く意思の強いとうようなイメージを抱いていた様です。
そんな母を基次郎は恐れていたとともに
最も自分を理解してくれる人として尊敬もしていました。

小学校時代、基次郎は父の転勤に伴い
大阪→東京→三重と各地を転々とします。
そして大正2年、三重県第四中学校に入学します。

基次郎にとって東京に居た頃はとても暗いものであったようです。
というのも、父宗太郎にとって東京行きは、左遷同然であったからです。
反対に三重県行きは営業部長としての出世であったため、
梶井一家に裕福さや明るさをもたらしました。
この三重県鳥羽に来た事で基次郎は
文明に汚されていないそのままの自然の美しさと
第四中学で教わった楽譜の読みこなし、つまり音楽に出会いました。

中学に入学しましたがまたも父の転勤により
大阪の北野中学に転入校します。
編入した当初は中位の成績でしたが、
三年終了時には130名中35位と上位になります。
しかし三年終了時、突然基次郎は退学します。
退学の理由は実業見習となっています。
これは三重県鳥羽にいた頃から一家ともに生活していた
基次郎と同い年の異母弟が高等賞小学校を出て奉公に出ることになったことを知り、
自分も奉公しようと退学したのでした。
このことについては少年の客気と正義感による父への抗議であったという考えと、
父を厳しく責めるより自分を厳しくしたという考えがあります。
基次郎も一年近く商店で働きましたが、両親の懇願もあり
北野中学第四学年に再入学します。
しかしこの年と次の年の出席日数が少なく、
この頃から基次郎の肉体には「結核」が巣食っていた可能性があります。
結核は当時は死病と呼ばれるような不治の病でした。
そして高校を受験するのですが、
兄の通っていた大阪工業高校の入試は失敗し、
結局三高に合格したのでした。
北野中学での基次郎は良い友、宇賀康、中出丑三、島田敏夫と出会い、
自らを高めるような聖域をつくり、
父の知人の娘に「初恋」をし、文学に傾倒したりしました。
この頃の基次郎は夏目漱石が好きだったようです。