三高時代
第三高等学校へ入学してからの時期。

合格した三高で基次郎は理科に進みました。
その頃の基次郎はエンジニアを目指していました。
実体としての自分とそれを超える手本との狭間で揺れ動いていた基次郎は、
入寮した寄宿舎で、生涯の友となる中谷孝雄、飯島正等等と出会い、
彼等の自由奔放な生き方を見て、
自分のなかに虚栄心や意志薄弱、怠惰など、
父宗太郎の中に見たものを自分のうちに発見します。
基次郎はこれらを「町人」的属性だとみなします。
しかしそれらは若い基次郎にとっては
屈辱的なものに他ならなかったのでした。
そうして基次郎はその屈辱から脱しようと、
「偉大」なものを目指すようになります。

大正9年、8月上旬基次郎は病気と落第を背負って、
姉の嫁ぎ先、三重県北牟婁へ移ります。
鮎を釣りながら日々を過ごしていた基次郎でしたが、
「知識的に収穫」のない自分に嫌悪を感じます。

9月、健康診断の結果があまり良くなく、
母や医師等に勉強をする事をとめられると、
学校へ行きたがっている患者に勉強を止めろというのは酷だと訴えます。
結局、田舎で過ごしていた日々を「焦燥と自己嫌悪の堕落時代」と呼び、
京都にひきかえし、もう一度一年生をやり直そうと決心します。

基次郎は自意識の確立や禁欲的、
感情にとらわれず運命を甘く受け入れる態度を目指しながら、
さらに厭うべき「町人」根性を悪く徹底した狂的時代に突入して行きます。
この時にある焦燥や、自己嫌悪は「檸檬」につなる所があるかもしれません。
その証拠に基次郎はこの時期に沢山の習作を残しています。
「瀬山の話」もこのあたりでかきはじめられます。
このやけで選ばれた破滅の道を脱出するための手立てはなく、
基次郎は脱する最後の手段として、全てを両親に告白する事に決めたのです。

大正12年両親に全てを告白して謹慎生活に入った後、
自らの短命を予感したり、神経衰弱になってまた落第してしまいます。
しかしこの時期には、作家になろうという意思があり、
三高の「劇研究会」を中心に活躍します。

ところが基次郎はじめ中谷孝雄ら「劇研」のメンバーが
計画していた公演が上演日前日に学校当局により中止させられてしまいます。
それをキッカケに基次郎の泥酔がつづきました。

しかし大正13年2月の試験を受けた後、
教授達のところを回り嘆願する 「教師廻り」というような芸当をやってのけ、
三月、やっとのことで卒業する事が出来ました。