東京時代
東京で過ごした日々、同人誌「青空」 。
大正13年、基次郎は東京帝国大学文学部英吉利文学科に入学します。
そこで三高時代からの友人を中心に同人誌を創刊すべく準備を始めました。
しかし同年、運命が与えた己への試練として考えていた
異母妹が死んでしまいます。
その死に対し「感情の灰神楽」としか言いようのない屈折した思いを感じます。
そんななか基次郎はいろいろな願いを込めて
三重県に移ります。
この地で「城のある町にて」が書かれました。
淡い死へのかげりが田舎町の人情、自然とを一層美しく見せるのでした。
同年10月、川端康成等によって「文芸時代」が創刊され、
「新感覚派論争」が展開されるなど新しい文学の息吹が感じられるなか
基次郎等は同人誌「青空」を創刊のために。
「瀬山の話」の挿話から「檸檬」を纏め上げました。
これで、基次郎は習作や、断片に見られた
本格的な小説の試みをすて、感性の世界によって
ひとつの結晶をつくりあげる方向に
作家としての道を限定し始めます。
大正14年1月、「青空」が創刊されました。
しかし基次郎の「檸檬」は他の作品とともに反響はありませんでした。
(「檸檬」のほかにも同人誌「青空」にて記載された作品は多々あります。)
大正15年、文芸雑誌「新潮」から小説の寄稿を依頼されるのですが、
基次郎は左右肺門と肺尖の悪化で体調を崩し
結局「新潮」の原稿は書けずに終わってしまいました。
迫り来る病魔をひしひしと感じながら、
卒業論文も提出できないままに、隠れ家を求めて旅立ちました。